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「2005年が人類のピークだった」説 我々はどこで道を間違えたのか

ハンス・ロスリング氏の遺作、FACTFULNESS(ファクトフルネス)が売れまくっている。
大変、喜ばしい。
本当にうれしい。
光文社のサイト「本がすき。」の書評で書いたように、私はロスリング氏の大ファンで、この本の主張に強く共感している。下はnoteに転載したもの。

強引にまとめるとこの本は、

悲観論に惑わされず、データを客観的に分析する立場(=ファクトフルネス)からみれば、世界はこの20年ほどで劇的に『良い場所』になった

と主張するものだ。
そして、単なる楽観論ではなく、トレンドは今後も維持できると考える「可能主義者」として人類の未来に希望を持とうと唱える。

平和賞でも、経済学賞でも、何なら文学賞でもいいからノーベル賞をもらってしかるべきだったと思うほど、ロスリング氏のことは敬愛している。
本当に惜しい人を亡くした。

「長い目で見たら人類はかなりマシになっている」という冷静な分析は、スティーブン・ピンカー氏の著作でも強調されるところだ。
たとえば「暴力の人類史」(青土社)。
邦題は「血まみれの歴史を振り返る」みたいなイメージだが、原題は THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE 、超訳で「人間にもマシなとこありますよ」と印象は逆になる。人類は段々と非暴力的になっているのをデータで示した大変面白い本だ。


(上下巻9000円の価値あり、だけど、文庫化してもっと読まれてほしい)

「サイン本!」のポップの引力に負けてロンドンの書店で買った近刊の ENLIGHTENMENT NOW も、同じ路線である。
タイトルからして「トランプ現象なんかに惑わされて悲観的になってはダメだ!いまこそ啓蒙を!」というストレートなものだ。
再読したいので、邦訳を待っている。

(当たり前だが、ピンカーのサイン入り。買っちゃいますよねえ…)

さて、こんな世界的権威たちに、経済青春小説を1冊出しただけの私ごときが異を唱えるのは無謀というものだろう。
でも、無謀を承知で、ここ10年以上唱えてきた自説を開陳したい。

それはずばり「人類のピークは2005年あたりだった説」である。

汚染される世界経済

先に示したデータを示した方が話が早いだろう。ファクトフルネス!

これは「世界のGDPがどれぐらい汚職まみれになっているか」を示すグラフである。数字が低いほど、「汚染度」が高いのを意味する。
私が唱える転換点、2005年にマークを置いておいた。そこから「真っ逆さま」なのは一目瞭然だろう。
これが「2005年人類ピーク説」の根拠の1つである。

ちなみにこのデータは私が勝手に計算したものだ。算出方法は以下の通り。

①世界の名目GDP(米ドル建て)上位国をピックアップ
②各国のGDPと汚職認識指数(CPI)から、世界の加重平均CPIを出す
③GDPはIMFのWORLD ECONOMIC OUTLOOK DATABASEの最新版、汚職認識指数はTRANSPARENCY INTERNATIONALの2018年版を使用

要するに、これは「世界が1ドルの富を生むのに、どの程度の汚職が必要か」を示している。シンプルかつ粗っぽいものだが、そんなに的外れでもないと思う。

汚職認識指数(Corruption Perceptions Index, CPI)はややマイナーなのでWikipediaを引用しておく(リンクはこちら)。読むのが面倒な方は下のボックスはスキップを。要は「数値が高いとその国はクリーン、低いとダーティ」という指数だ。

腐敗認識指数(ふはいにんしきしすう、英語: Corruption Perceptions Index, CPI)は、トランスペアレンシー・インターナショナル(国際透明性機構、TI)が1995年以来毎年公開しているもので、世界の公務員と政治家が、どの程度汚職していると認識されるか、その度合を国際比較し、国家別にランキングしたものである。
2009年の調査[1]では、180カ国を対象とし、10の機関が調査した13種類のアンケート調査の報告書を統計処理して作成されている。指数は、最も清潔な状態を意味する100から、最も腐敗していることを示す0までの範囲で採点されており、7割の国が50未満で、開発途上国では9割以上の国が50未満となっている。

この文章では「腐敗」とせず「汚職」と訳しているのはただの私の好みである。ちなみにグラフ作成に採用したGDP上位国の汚職指数(CPIだと物価みたいなので以下、これで行きます)は以下の通り。

私のざっくりした解釈では、
・70~80なら、おおむねクリーンに政治・経済が回っている
・50以下だと「政治家と役人に賄賂渡すのはビジネスの日常」になる
・その中間は「案件・分野ごとに応相談」というレベル
・30以下は「賄賂と汚職が政治家と役人の本職」
という具合かと思う。
日本は73。「おおむねクリーン」という評価に首をかしげる人もいるかもしれない。でも、役所の許認可で日常的に賄賂を求められず、末端の警察官がスピード違反のもみ消しでお小遣いを稼ぐといった行為もない日本は、「おおむねクリーン」に値する。
トップの常連は、上のリストにも一部入っているが、デンマークなど北欧諸国やニュージーランド、オランダなどで汚職指数は80半ばから90前後だ。

欧米諸国の「上から目線感」は否めないが、リストを眺めれば、そんなに違和感はないだろう。
GDPが上位31位までと中途半端なのはアフリカ代表でナイジェリアを入れたかったから。これで世界のGDPの88%ほどをカバーできている。

「世界はロクでもない場所になっていく」という直観

さて、私が「2005年人類ピーク説」を思いついたのは2006年ごろだった。
リーマンショックの前なのが我ながらすごいと自負しているのだが、飲み会の場で同僚記者や親しい取材先に与太話として披露していただけだから、あまりすごくないとも言える。
文章の形で公開するのは、今回が初めてだ。

着想のきっかけの1つは、BRICsブームだった(懐かしい……)。
ブラジル、ロシア、インド、中国を「次世代のスター」と位置付け、「先進国よりそちらに投資しよう!」と煽るキャッチコピーみたいなものだった。4か国の頭文字をつないでBRICs、である。
当時は「原油は1バレル200ドルを軽く突破する」といった予想が横行する資源ブームだったので、のちにSを「南アフリカ」とした強引な拡張バージョンBRICSが編み出された。

さて、BRICsの2018年の汚職指数を抜き出しておこう。

中国=39
インド=41
ブラジル=35
ロシア=28

「勘弁してもらいたい」というレベルだ。
全員そろって「オマケ」の南アフリカ(汚職指数44)に負けている。

BRICsに限らず、成長ポテンシャルや人口動態から見て、いわゆるDeveloping economiesの方が欧米先進国や日本などのDeveloped economiesよりも比重が上がっていくのは、2006年当時も今も常識と言っていいだろう。
2006年の時点で私が改めて気づいたのは、我々=先進国側の戦略ミスである。私の目には「先進国クラブは、冷戦終結後に旧共産圏を世界経済に組み込むにあたり、目先の利益を優先しすぎて中国やロシアを甘やかしすぎている」と映っていた。

たとえば2001年の中国の世界貿易機構(WTO)加盟。
当時、民主化の遅れや経済の閉鎖性を温存したままでグローバル市場へのアクセスという恩恵を与えることへの危惧は、「経済発展すれば中間層が育って、中国の内側から民主化が進む」という甘い認識で封殺された。
結果がどうだったか言うまでもないだろう。

私はその頃よく「我々はモンスターにエサをやっている」と言っていたものだ。
お断りしておくが、モンスターとは中国共産党のことである。
私は、ロスリング氏と同じように、経済発展で中国から貧困が激減したことは文字通り、偉業だと認識している。
国家としての中国には歴史的な親しみを感じるし、一人一人の中国人が豊かで幸せになることは素晴らしいことだと思う。
改革開放に舵を切った鄧小平氏は優れた指導者だった。それに異論はない。

だが、専制政治を温存したままで中国が超大国になるリスクは過小評価すべきではなかったし、今もすべきではない。
鄧小平氏が改革開放と一緒に唱えた韜光養晦(とうこうようかい)、つまり「爪を隠して力を蓄える」という戦略は、ほぼ手遅れなところまで成功してしまった。
今、トランプ政権が遅まきながら中国の封じ込めに動いている。これは過去の政権が「巨大な中国市場」という目先の果実に目がくらんで問題を放置した尻ぬぐいの感が強い。トランプ政権は万事デタラメだが、こと対中政策では米国内で超党派の支持があるのはその証左だろう。
まあ、私に言わせれば「何を今さら、もう遅いよ」という感は否めないが。

さて、「2005年人類ピーク説」である。
当時、「これから世界経済に占める『ろくでもない国』の重要性が増すのではなかろうか」と考えた私は、冒頭に紹介したのと同じようなグラフを作ってみた。
繰り返しになるが、「1ドルの富を生むのに、どの程度の汚職が必要か」という粗っぽいお手製のデータは、多少レベル感の違いはあったにせよ、当時も今とトレンドは変わらなかった。スクロールで戻るのも面倒だろうから、最初のグラフを再掲しておこう。

一応、注記を。
このグラフは計算を簡易にするため、腐敗指数は2018年の数値で固定している。「民主化や経済発展で汚職が減少するのを過小評価してしまうのでは」という懸念には、「そうでもない」とお答えしておこう。
汚職は、なかなか減らないものなのだ。
ご興味のある方のために、経済規模や人口の大きい「残念な国」のトレンドが分かるリンクを下に並べて置く。例外はインドとインドネシアぐらいで、「残念な国は、おおむね、いつまでたっても残念なまま」なのである。

汚職指数長期データ(グラフ)
中国 ロシア ブラジル インド インドネシア ナイジェリア

Transparency International は 最新サーベイのサマリーに HOW CORRUPTION WEAKENS DEMOCRACY (汚職がいかに民主主義を蝕むか)というタイトルを付けている。Managing DirectorのPatricia Moreira氏のコメントを引く。

Corruption chips away at democracy to produce a vicious cycle, where corruption undermines democratic institutions and, in turn, weak institutions are less able to control corruption

「汚職がはびこると政府・行政機関など民主主義の担い手の力が弱まり、それが汚職を抑制する力をそぐ悪循環が回ってしまう」というわけである。
改めて言われるまでもない当たり前の話ではある。

「汚職まみれの富」が3割を超える

別の見方をしてみよう。

汚職指数が40以下、言い換えると中国、ロシア、ブラジル並みの「残念な国」が生み出すGDPは、2000年代までは世界の1割程度だった。
だが、その割合はすでに4分の1に達し、IMFの予測が当たれば2020年代には3割を突破する。
トレンドは強烈に右肩上がり。つまり、世界経済はどんどん汚染度が上がりそうなのだ。
人口大国のインドとインドネシアの反汚職キャンペーンが逆流したら、汚染は加速する。モディ・ジョコウィ両氏には何とか踏ん張っていただきたい。

実は先進国も腐っている

「2005年人類ピーク説」の根拠は「これから非民主的で『残念な国』が富の生み手になる」というデータだけではない。
着想した2006年当時、私の目には、先進国の経済も根っこで進む腐敗を止められないように見えていた。今も見方はあまり変わらないし、むしろこちらの方が深刻なんじゃないかと思っている。

「根っこ」とは、オフショア=タックスヘイブンである。
詳しく書くとトンデモない行数になるので、このあたりの本を読んでください、と参考文献を列挙するにとどめる。

当時、一大ブームで私の取材テーマだった証券化ビジネスも、オフショアがカギを握っていた。のちにリーマンショックを引き起こす証券化商品のスキームは、見れば見るほど強烈な腐敗臭を発散していたものだ
金融危機後、いわゆる「1% vs 99%」の構図で語られるようになった、富の集中とグローバル企業の「節税」でも、オフショア=タックスヘイブンは中核的な役割を担っている。

せっかくだから、今年のダボス会議で話題になった、オランダの歴史家・作家ルトガー・ブレグマン氏の面白い動画をシェアしておこう。

「プライベートジェットでダボスに集まって環境問題が大変だと騒ぐのは滑稽だし、慈善活動で世界を救おうとか偽善はよせ。世界経済の問題は、租税回避だ。税金、税金、税金!」(超訳)
よくぞ言ってくれた。「消防士の会議なのに『水のこと話すの、禁止な』と言われてるみたいだ」という皮肉も痛快だ。

話を「2005年人類ピーク説」に戻そう。
オフショア=タックスヘイブン問題について知れば知るほど、「こんなことやってたら、いつか天罰が下る」という思いは強まった。
私がこの説を唱えだして1年ほど経った2007年夏、リーマンショックの前兆となる証券化商品の最初の異変が起き、2008年の金融危機とその後のグレート・リセッションを経て、我々は今、「トランプの時代」にいる。

ちゃんと天罰は下ってしまった。

我々は下り坂に入っている

実はこのnoteのテーマは、友人から何年も「本にしろよ!」とけしかけられてきたネタである。
2006年の時点で何らかの形にしていれば、「予言の書」みたいな扱いになったかもしれない。でも、今となっては後出しジャンケンみたいなもので、「そりゃそうだろ」という感じしかない。だから、サッサとnoteに書いてしまった。

ベストセラーへの反論と題してみたが、敬愛するロスリング氏と現状認識について大きなずれがあるわけではないことは再度強調しておきたい。
同書でロスリング氏は「炎上覚悟で言わせてもらおう」という前口上の後、「民主主義と経済発展をセットで考えるのは誤りだ」という冷徹な事実を指摘している。
彼自身は民主主義の信奉者だが、貧困の克服と民主化は別問題として考えるべきだと説く。私もこれには同意する。

たとえ汚職にまみれていようとも、富を生み出さないと、ワクチンや清潔な水は行き渡らず、子どもたちの命は失われる。
汚職まみれの体制が生み出す富は、子供たちの命を救うためにも投じられるだろう。
だが、一部は専制体制の軍備や国民監視システムにも投じられる。中国やロシアをみればそれは明らかだ。

そもそも私は、民主的と言われる先進国も経済システムの設計に失敗していると考えているし、我々の民主主義は現状、うまくワークしていない。
ゆがんだ経済システムがためこんだ不満のマグマに焼かれ、民主的な国家ですら政治は不安定になっている。
先進国経済システムの大穴=オフショアは、Developing economies の汚職撲滅・民主化の障害にもなる。

貧困の撲滅という側面では、我々は過去20年、うまくやってきた。
でも、その間に、そうした明るい成果の裏側で、どこから手をつけて良いかもわからないほど、政治・経済の構造問題を膨張させてしまった。

だから、私はどうしても「可能主義者」になりきれない。
景気と物価が安定した「ゴルディロックス=適温」にあった2005年。
中国やロシアが完全に「逆コース」をたどる前だった2005年。
オフショアを震源地とする爆弾が爆発する前だった2005年。
あそこをピークに、我々は下り坂に入っているのではないだろうか。

バトンを渡すために書いた本

話は飛ぶようだが、未だに時折思いだす、ある先輩記者との会話がある。
それは私が「2005年人類ピーク説」を思いつく2~3年前のことだった。
6つほど年上のその方は、奥様と話し合って、子どもを持たないことに決めたという。
すでに娘(長女)の父親だった私は「どうしてですか」と素朴な疑問をぶつけた。すると、意外な答えが返ってきた。

「こんな酷い時代に子ども生むなんて、そんな無責任なことはできない」

かなり酒が入っていたとはいえ、子の親である人間を前に軽々しく言って良いセリフではないだろう。実際、私はかなりショックを受けた。

そして「2005年人類ピーク説」を思いついてからは、「こんな酷い時代に」という言葉が、自分のものとして頭の中でこだますることがあった。

2010年から家庭内連載を始め、1年前に商業出版した「おカネの教室」には、こうした私の考えが色濃く反映されている。
読んでくださった方なら、このnoteと、エピローグのカイシュウさんの独白に重なるものを感じていただけたのではないだろうか。

リーマンショックはなぜ起きたのか。
それは何を意味するのか。
我々はどこで道を間違えたのか。
大づかみで良いから、自分の娘たちが大人になるまでに伝えたい。
このインタビューで語った通り、そんな思いが「おカネの教室」の執筆の動機の1つだった。

何やら柄にもなく生真面目かつ真っ暗な話になってしまったが、かといって私は人類の未来に絶望しているわけではない。
根は楽観的な人間なので、そんなことはない。
ただ、ファクトフルネスを持って考えると、生来の楽観論にブレーキがかかってしまう、というだけである。

希望が持てるのは、今の若い世代は、どうやら私やそれより上の世代より、「まとも」なことだ。
これは別にただの私の印象論ではない。
各種のサーベイなどをみると、公正さやオープンネス、他者への寛容さ、合理性などで、若者たちは旧世代より優れた価値観を持っている。
オバマ大統領がサヨナラ演説の締めくくりにこんな指摘をしたのを覚えている方もいるだろう。

Let me tell you, this generation coming up — unselfish, altruistic, creative, patriotic — I've seen you in every corner of the country. You believe in a fair, and just, and inclusive America.  You know that constant change has been America's hallmark; that it's not something to fear but something to embrace. You are willing to carry this hard work of democracy forward. You'll soon outnumber all of us, and I believe as a result the future is in good hands. 

(リンク先に動画あり。やはり演説うまいですね。演説は)

「2005年人類ピーク説」は、古い世代(私も含む)の残した負の遺産から導かれる悲観論だ。
でも、オバマ氏が言うように、時がたち、新しい世代が主役になれば、世界はより良い場所になり得ると信じたい。
私の拙いデビュー作は、そのちょっとした助け、いわば「バトン」になれば、と思って書いたものだ。
のんきな我が娘たちに受け取ってもらえたかは、大変、心もとないけれど(笑)

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