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誰がためにルビは振る

「ついに俺にも『来た』か……」
先日、朝風呂の最中にマンガを読んでいて(長年の健康的な悪癖です)、私は何度も何度も以下のコマに目を凝らし、動揺しまくっていた。

この「棒術」に振られたルビが、どうしても読めなかったのだ。
本を近づけても、遠ざけても、どうしても読めない。
そう、奴が「来た」のだ。老眼が。

私は「見た目が若い」とよく言われるし、自分でもそう思う。
この投稿で書いた通り、「貫禄ゼロ」なのは、損したり、得したりする。

損得は置くとして、もうすぐ47歳なんてお年頃だと、同年代の知人・友人の多くはもう「来て」いる。だから、私に「来た」としても、何の不思議もない。
でも、「童顔で老眼」はちょっと悲しい。あ、ちょっとウマいこと言っちゃった。

不思議じゃないどころか、いまだに老眼じゃないのは、ちょっとした僥倖でさえある。
実は私は15年ほど前にレーシックを受けていて、両目とも裸眼で1.5というピカピカの視力を誇っている。レーシックを受けた動機やメリット・デメリットはまた改めて別の機会に。
施術前に医師に言われたデメリットの1つは老眼が早く「来る」ことだった。近視と老眼が相殺する期間がなく、ドカンと「来る」、と。

だから、動揺しつつも、「ついに」という思いがあった。
大好きな「MASTER KEATON Re マスター」を半身浴で読みふける至福の時間に訪れた事件は、ショックと同時に諦念のようなものを引き起こした

タイムマシンだった「ルビ」

そういえば、なんで読み仮名のことを「ルビ」って言うんだろう、とググってみて、びっくりした。
例によってWikipediaから拝借。

明治時代からの日本の活版印刷用語であり、「ルビ活字」を使用し振り仮名(日本語の場合)やピン音(中国語の場合)などを表示したもの。日本で通常使用された5号活字にルビを振る際7号活字(5.25ポイント相当)を用いたが、一方、イギリスから輸入された5.5ポイント活字の呼び名がruby(ルビー)であったことから、この活字を「ルビ活字」とよび、それによってつけられた(振られた)文字を「ルビ」とよぶようになった。明治期つまり19世紀後半のイギリスでは活字の大きさを宝石の名前をつけてよんでいた。

なんと、「ルビ」が Ruby だったとは!
素敵やん。
無知ってのは、こういうささやかな発見で喜べる良さがありますね。

ちょっと話が飛びますが。
敬愛する山本夏彦翁は「完本 文語文」(文春文庫)のあとがきで、自身が文語文に親しんだいきさつを紹介している。

(夏彦翁は全冊読んでますが、屈指の名著)

昭和2年から3年、小学校6年から中1にかけての半年あまりの間に、夏彦少年は明治30年代の古新聞古雑誌に読みふけった。新体詩人だった父・露葉の作品が掲載された記事がお目当てだった。
夏彦翁によると、「当時の新聞雑誌はすべて文語文で、総ルビつきだったから少年でも読めたのである」という。ルビのおかげで、「三十余年」前のコンテンツにアクセスできたわけだ。
露葉が亡くなる直前のことであり、一緒に父の日記40冊も読んだというから、いろいろと思うところがあってのことだったのだろう。この時身に着けた語彙が、彼の独特の文章の土台となった。
ルビというタイムマシンが希代の名コラムニストを生んだのだ。

ルビって、大変

ルビを振る、しかも総ルビというのは、大変な作業だ。
なぜ断言できるかというと、自分でやったことがあるからだ。

noteで全文公開している、この「ポドモド」という童話は、「おカネの教室」と同様に、家庭内連載していたものだった。ポドモドの方が先です。

初稿は原稿用紙に手書きして、推敲しながらワードに写した。
その際、小学校の低学年だった長女だけでなく、4つ年下の次女にも早く読んでもらいたくて、総ルビを振ることにした。
やり始めてすぐ後悔した。
ワードのルビ振り機能が極めてお粗末で、手直し地獄になったのだ。
しかも、アホなことになぜかワードには「ルビを一括で外す」という機能が無かった(現行バージョンがどうかは知りません)。
元ファイルを取っておかなかった自分がアホなのだが、総ルビを振ったファイルはクソ重く、知人に配ったり、投稿したりする際には不便極まりない。
仕方ないので、総ルビを振ったファイルから手作業でルビを外すという不毛極まりない作業までやる羽目になった。

それでも、「ポドモド」は早くから次女の愛読書になってくれて、知人・友人にも気軽にバラまけて、Kindleで出版するときも、noteに転載するときも、「ルビ無し」ファイルが活躍した。
苦労は報われた、と思いたい。「ポドモド」、そこそこ面白いので読んでみてください。挿絵は次女が描いてます。

ルビが消えて失われるもの

「完本 文語文」に戻ると、文庫版256ページで夏彦翁はこんな指摘をしている。少し引く。

明治時代の原稿は作者自身が仮名を振った。文字を知るということは漢字にどれだけの仮名が振れるかということで、畢竟、奈如なると書いてつまり、どうなる、これから将来奈如(さきどう)しよう、恐怖(おそれ)、歔欷(すすりなき)、揶揄(からかう)などと作者が仮名を振って読ませた。
注:カッコ書きは原文ではルビ

この後、夏彦翁は「仮名を振る習慣がなくなって以来漢字のよみ方は限られるようになった。すなわち畢竟(ひっきょう)と書いてつまりと読ませることは許されなくなった」と指摘して、「畢竟それだけ語彙は減ったのである」と夏彦節らしい、皮肉かつアクロバチックな結論を記している。うまいねぇ。

ルビは若者のものである。
ルビがあれば「背伸び」して大人のコンテンツが読めるし、旧世代の語彙にも触れられる。
それに、細かい活字は、老眼のオジサンには役に立たない…。

冒頭の個人的エピソードに戻ろう。
お風呂から出ると、私はすぐに着替えてハズキルーペを求めて街へ出た。

というのは、嘘でして。
リビングに行って、スマホを探した。さきほどのコマの写真を撮って文字を拡大しようと思ったのだ。
さすが、SHARPの往年の名機「X-1c」で、ベーマガ片手に自作ゲームまでプログラミングしていた元祖デジタルネイティブ(←8ビットだけどな)

なのだが。ふと、もう一度、問題のコマに目を向けてみると…。

「クオータースタッフ」。
なんだー。読めるじゃないですかー。
単に、浴室は暗くて、はっきり見えなかっただけだった。
そう、「まだ『来て』なかった!」のだ。

ということで、ハズキルーペの耐久性を夜の街のお姉さまに試してもらう楽しそうな遊びは、もうしばらくお預けとなった。

ところで、皆さん。
お気づきだろうか。
タイトル画像、キートン先生が手にしているのは……。

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