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提言!オリンピックは毎回ギリシャでやろう!

さて困った。タイトル以上に言うことがないぞ。
というわけにもいかないので手短に。
私の提言の骨子は以下のようなものだ。

・オリンピックは毎回、ギリシャのアテネで開く
・開催は2年に1回とする
・IOCはいったん解体して、新しいNPOが運営する

四半世紀来の持論

この猛暑で「2020年の東京五輪、無理ちゃうか」という声は増えている。実際、「夏は小学校の体育をやめとこう」って国でやろうってのは無茶だ。
そもそも、この五輪は、誘致を巡るスキャンダルにエンブレムのゴタゴタ、スタジアム建設費の高騰、グズグズのボランティア募集、ライバルよりトイレのような悪臭と大腸菌との闘いになりそうなオープンウオーターなどなど、ケチがつきまくっている。
私も「だからもう、やめとけば?」とは思う。東京五輪が決まった時からアンチだったので、「そら見たことか」とも思う。

でも、私の「東京五輪反対」はもっと根が深い。年季が違う。
私がオリンピックというイベントに嫌悪感を持つようになったきっかけは、学生時代に読んだ1992年刊のこの本だった。

訳者が広瀬隆というのが若干香ばしいが、それは置いておいて。
この本は五輪に長年君臨したサマランチという怪物を軸に、IOCの腐敗やスポーツビジネスとの癒着、ドーピングの横行を正面から告発した衝撃作だった。
この告発の後も事態は何も変わらず、オリンピックの開催都市の選定のシーズンになると、IOC委員への異常な接待やらカネの動きやらといったニュースが散発的に流れるのが常だ。ちょっと関心がある人間なら、IOCが利権と汚職にまみれた真っ黒な組織なのは「常識」であろう。

オリンピックは厄介なものになっている

お断りしておくが、私はスポーツをやるのも見るのも好きだ。
人間の限界に挑むアスリートの努力とパフォーマンスには素直に感動する。

だが、オリンピックは、私の目にはもう、スポーツの枠を超えた厄介なバケモノになっているように映る。
4年に1度しかないチャンスに、メダルを取るか取らないか、何色のメダルを取るかで、アスリートの人生が左右されすぎではないだろうか。

イベントの巨大化で利権がデカくなりすぎて、どうやってもおかしな金の流れを生んでしまう。聖火リレーやら開会式やらも、「国家の威信」をかけて、華美になる一方だ。

腐った組織が仕切って、多額の公費を投じ、無駄な「箱モノ」と借金を残し、アスリートはドーピングの誘惑にさらされる。

スポーツの振興にオリンピックが果たす役割が大きいのは理解している。
だが、世の中には「ほど」というものがある。
ここまで巨大ビジネス化してしまっては、弊害の方が大きくはないだろうか。

肩身が狭いアンチ五輪

この20年以上、こういう考え方の持ち主なので、オリンピックには、始まってしまえば毎回楽しく観戦するのだが、モヤモヤとした気持ちが消えない。

アンチ五輪は肩身が狭い。
2013年に、2020年大会の開催都市が東京に決まった瞬間のことはよく覚えている。
当時、私はマーケット報道チームのキャップで、中堅・若手の記者と一緒に中継を見ていた。
「TOKYO」と宣言された瞬間、私は頭を抱えて「うわぁぁぁ……勘弁してくれよ……」とうめき声をもらした。
すると、周りから「え!なんでそんなこと言うんですか!?」と非難の声がポンポンと飛んできた。
曰く、
「お祭りじゃないですか。盛り上がりますよ!」
「生きているうちに自分の住む街で開催なんて超ラッキー」
と、四面楚歌の状態。
一応、IOCがいかに腐っているか、今さら亜熱帯気候に移行した東京で夏季五輪をやるのは無茶だ、住んでるからこそアホみたいにカネがかかって大渋滞になる迷惑イベントでしかない、といった持論は述べたが、「そうやって斜に構えるの、カッコ悪いですよ」とバッサリ切られた。

以来、長いものには巻かれる主義の私は、五輪反対論を封印してきた。いや、酔っぱらうとたまに漏らしてましたが。

ギリシャで見た廃墟

さて、タイトル画像は1896年に近代オリンピックの第1回大会が開かれたスタジアムである。2017年にアテネに旅行に行った際に立ち寄った。「この簡素な競技場からあんなバケモノが生まれたのか」と妙な感慨を覚えた。
その後、定額で乗り降り自由のHop on Hop off方式の観光バスでピレウス港の方まで回り、道すがら、2004年のアテネ大会で使用されたスタジアムをいくつか目にした。
それは、噂に聞いた通り、巨大な廃墟と化していた。アテネ中心部の第1回大会のスタジアムはギリギリ観光地として機能しているが、2004年の「箱」はいまや無用の長物でしかない。
この大会で無理をしたのが、リーマンショック後に表面化したギリシャ債務危機の遠因の1つになっている。
同じようなツケに2016年の開催国ブラジルも苦しんでいる。

東京五輪は選手村をマンションに転用するといった施策を予定しているようだが、さて、どれぐらいワークするんでしょうね。

もう役割は果たした

「オリンピックを色んな国で開催しよう」という発想は、スポーツの普及と振興、そして国際協調による平和への貢献が目的だろう。

前者については、実際、オリンピック誘致を機に開催国でスポーツが盛んになったり、五輪採用が競技人口にプラスになったり、なお威力はある。
だが、その効果の大きさは、オリンピックが「スポーツの祭典」としては図体がでかくなりすぎていることの裏返しではないだろうか。

後者の「平和への貢献」は、今のような形態でなくとも十分に果たせるはずだ。むしろ今のような政治色やナショナリズムに利用されるより、それを排した方がより効果的だろうと私は思う。

要するに、オリンピックは、今さらあっちこっちの国でやらなくたって、良いのだ。
そういう形で果たすべき役割はもう、十分果たしたと思う。

発祥の地でやれば良いじゃない

以上、アレコレと書いてきた。私の提言を再掲する。

・オリンピックは毎回、ギリシャのアテネで開く
・開催は2年に1回とする
・IOCはいったん解体して、新しいNPOが運営する

別にどこでも良いのだけど、発祥の地だし、直せば使える「箱」もあるから、場所はアテネに固定してしまえば良いでしょう。
無駄な投資もなくなるし、観光以外、ロクな産業がない国なんだから、ユーロ圏解体の延命策にもなる(かもしれない、笑)

そして、開催地決定やらスタジアム建設の費用やら手間が省けるのだから、開催は2年おきにしてしまう。
4年に1度というのは、古代オリンピックの真似っこでしかない。
アスリートのピークが五輪と合わないといった悲劇もなくなるし、「レアなイベント感」が薄まれば、過剰な盛り上がりもなくなって、純粋にスポーツの祭典として楽しめそうな気がする。

そして、根っこまで腐ってるIOCは解体すべきだ。

冬季五輪と隔年開催で

冬季五輪も同じような形にしてしまえば良い。
2年に1度、毎回、同じ場所でやる。
夏、冬、夏、冬、と毎年やる。妙なイベント感が一層減るだろう。
場所は雪不足の心配がない場所ならどこでも良い。スイスか、長野、北海道あたりとか、アスペンとか。

うん。もう書くことはない。以上、私の20年来の持論でした。
まあ、実現の可能性が限りなくゼロに近いのは承知してますが。
一部の方々には「おいしい」からね、オリンピック。

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