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消えた故郷に似た匂いの町

最近、墨田区の押上という町に引っ越してきた。移って1カ月ほどになる。

通勤や子どもの通学の便を優先して深く考えずに選んだのだが、最近、近所をトコトコと歩いていて、街並みに郷愁のようなものを感じることに気づいた。
私が育った町や、夏休みや正月に遊びに行った祖父母の住んでいた町にどこか似ているのだ。

今や押上と言えばスカイツリーであろうが、町の歴史は古い。例によってWikipediaから一部抜粋引用します。

1902年4月1日 東武伊勢崎線吾妻橋駅が開業1910年7月28日 都電業平線が開通。始発駅として、業平橋駅が開業1912年11月3日 京成本線の始発駅として押上駅が開業1913年11月11日 都電業平線が押上橋駅まで延伸
この間、押上は東京の下町で最も繁華な街の一つを形成していた

1960年12月4日 - 押上駅に都営浅草線が開通。京成線と相互直通運転開始
1972年11月12日 - 都電業平線廃止。押上駅はターミナル駅の座を失う
この間、押上は商業が衰退していった

2003年3月19日 半蔵門線と東武伊勢崎線が開通。再びターミナル駅に
2006年3月25日 操車場跡地が新東京タワーの建設地に決定
2008年3月7日 周辺区域の大規模な再開発が行われた
2012年5月22日 東京スカイツリータウンが開業

私は1972年に名古屋で生まれ、物心つく前から就職で上京するまで、市北西部の西区のある町で育った。
名古屋の西区と北区(の一部)は、いまや名刺がわりのこのnoteに書いたように、ヒルビリーな町だった。

東京で言うと足立区や江戸川区、江東区あたりのちょっとヤンチャなゾーンに近いといえば、イメージを持ってもらえるだろうか。

私が子どもの頃は学区内にはマンションは数えるほどしかなく、それなりに立派なお屋敷や、どうってことない一軒家、ボロ借家(我が家はこれ)、その合間に小商いの個人商店や小さな工場、倉庫が混在していた。
つまり1970~80年代の地方都市のごく普通の街並みだった。

消えゆく故郷

でも、私が育ったそんなヒルビリーな町は、もう存在しない。
帰省するたび、子どものころにあった建物はどんどんなくなり、新しい、ちょっとした洒落た新築一軒家や、虫食いのような駐車場に置き換えられていっている。

子どものころ、朝夕にサイレンを鳴らしていた紡績工場はショッピングモールになって久しく、近くの幹線道路の上には高速道路が通り、そのための道の拡張で馴染みのあった路面店はほとんど姿を消した。
ヒルビリーな私のたまり場で、いろんな記憶の詰まった公団の高層住宅も、近いうちに取り壊されると聞く。

今住んでいる押上も、太い通りにはタイル張りの小ぶりのビルが並び、真新しい一戸建ても多い。
でも、一本入った界隈には、昭和の雰囲気がまだ残っている。どういう力学が分からないが、どうもわが故郷より新陳代謝が緩やかなようだ。

先日、押上からもう一駅北の曳舟方面に所用があって20分ほど歩く羽目になった。
日陰を選んで歩かないと熱中症一直線という猛暑日だったのだが、郷愁に誘われて何枚も写真を撮りながらの道中になった。
オジサンが若者言葉を使うとキモいのは承知で言えば、どうにもエモいのだ。
何枚か撮った写真をご紹介しよう。

路地や板塀、波トタン板の屋根や壁、無防備なガラスの引き戸。
これは皆、私のホームタウンでは急速に姿を消していっているものだ。

馴染めなかった「プチおハイソ」な町

私は十数年前、半蔵門線の反対側、田園都市線の某駅の近くに住んでいた。いま大学生の長女が幼稚園に通いはじめ、次女が生まれたころだ。
東京有数のベッドタウンのあの辺りは、「プチおハイソ」なゾーンで、砂場で母親が子どもに「お砂」なんて単語を使いそうな土地柄だ。
私はあの町には、どうにも馴染めなかった。これといった理由もなく、落ちつかないのだ。

数年住んだ後、通勤時間圧縮という狙いもあって、東京の反対側、江戸川区に居を移した。この時、会社の先輩から「そんなところで子育てして大丈夫か。ロクな学校もないぞ」と酷いことを言われたのが忘れられない。実際には、デンジャラスな中学校もあるけれど、悪くない学校だってあって、そんなことは全然ない。高校になると選択肢が狭まるのは確かだが。

その江戸川区に引っ越してすぐ、私は近所のスーパーに行った。すぐ近くにドン・キホーテがあり、その激安スーパーを挟んで反対には「GU」があるという一角で、私は密かに「東京デフレストリート」と呼んでいた。
そのスーパーの駐輪場で、幼稚園児か小学校低学年と思しき子どもがお母さんにダダをこねていた。
よくある光景だが、その後の展開が「プチおオハイソ」な田園都市線とは違った。

「スパーーーーン!」

業を煮やした母ちゃんが、いきなり子どもの頭を平手でひっぱたいたのだ。
子どもは腐って黙り込んだけれど、泣きもしない。
「……いいねぇ!」
私は体罰絶対反対の人間で自分の子どもに手をあげたことなどないが、気持ち良い一発を見て、育った町に近い土地柄に妙にしっくりきてしまった。

結局、その後10年ほど、その界隈に住むことになった。
薄汚いけどうまい中華料理屋や、ウロウロするダメそうなヤンキーたち、銭湯で会うガテン系や倶利伽羅紋々のお兄様方など、ヒルビリーな私には居心地の良い町だった。

その後、ロンドンに2年住み、戻って1年ちょっと江東区に住んだ。江東区の大島という町も、細い道を入っていくと昭和な建物が生き残っていて、「ああ、懐かしいな」と感じることはあった。
でも、押上の路地裏ほどの昭和感はなかった。

この町を歩いていると、故郷からは何百キロも離れているのに、子どものころ路地を駆使して暗くなるまでやった缶蹴りや、30円の買い物に数十分を費やした駄菓子屋、死んだような構えなのに何年たってもつぶれない商店など、いろんなものを思いだす。いつも路地にポンと置いた椅子に座っていた老人のことが、数十年ぶりに脳裏をよぎったりする。

最近は名古屋の故郷の町に帰ると、時代の流れとはいえ、「こんな風に自分の思い出の場所が『抹殺』されていくのは、たまらんな」という寂しさを覚えることがある。
そして同時に「消えるなら、買い留めておきたい」と創作のインスピレーションになることもある。
だから、帰省すると、用もないのに、あちこち自転車でブラブラしたり、思い出の団地をのぞきにいったりする。それは実際にとても良い刺激になる。

たまたま縁があって越してきたこの町には、同じようなケミストリーを起こす力があるようだ。できれば、スカイツリーができる前に住んでみたかった。

結局、人間は、自分が育った環境や時代、子どものころに見たものや聞いた音楽、読んだ本の影響から、自由にはなれないし、なるべきでもないのだろう。
さすがにこの猛暑なので、そうそう散歩というわけにはいかないが、暑さが緩んだら、この町をもう少し深く、広く、ゆっくりと見てみたいと思う。
短編集ぐらい、サクッと書けないかな。

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