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「若く見える」のは得か損か

最近、次女とロシアに遊びに行ってきた。
上の写真は到着した空港での自撮りで、修正モードオフの「盛り」無しの一枚だ。我ながら年齢不詳だな、と思う。
ちなみに1972年生まれ、今年で47歳です。

最近、白髪も地味に増えたし、寝起きで鏡を見ると「オレも老けたな…」と思うようになったが、昔から実年齢マイナス10歳くらいに見られることが多い。
海外だと東洋人はただでさえ平均10歳くらい若く見られる。
単純計算だと実年齢マイナス20歳になっちゃうわけだが、これが冗談抜きで、そうだったりする。

「ニジュウ…ハチサイ?」

今回の旅行では、モスクワ駐在の友人宅に転がり込んだ。
着いた夜、友人宅に20歳のロシア人、クリスティーナさんが遊びに来ていた。独学で英語と日本語がかなり話せるという才女で、ちょくちょく日本にも遊びに行っているという。
紹介が終わってすぐ、友人が面白がって、
「ところで、こいつ、何歳に見える?」
と聞いた。
クリスティーナさんは、少し迷いながら、
「ニジュウ……ハチサイ?」
みんな爆笑。46歳だと話すと目をむいて「ウソツキ、デスカ?」

遡ること1年ほど前、ベルリンでも似たようなことがあった。
観光バスに乗り合わせたアメリカ人と雑談になり、今はロンドンに住んでて近いうちに日本に帰るんだよね、と話したら、オバサマが
「ああ、大学が終わったのね」
と頷いている。しばしフリーズした後、まさかと思い、「あの…私、もうすぐ46歳で娘が3人いるんですけど」と話すと、「グッドなジョークね!」みたいな反応で、全く信じてくれないのだった。

昨年3月末のロンドン最終日にも、空港に向かうUberの運転手(中東系?)に、同じことを言われた。
「これから日本に帰るんだよ」
「学校卒業したんだね、おめでとう!」
ちゃうねん!と説明すると、信号待ちのタイミングでバッと振り返って凝視されてしまった。

記者稼業では損

新聞記者という稼業では、若く見えるのは、損することが多い。
取材先にナメられたり、相手が不安になったりするからだ。

外国人相手のインタビューなんかだと、会った瞬間に「おいおい、こんな若僧で大丈夫かよ」という表情がよぎる。
ビジネスの場で年齢を聞くのはタブー。でも、日本は終身雇用が多いのを知っているので、相手は「今の会社は何年目?」みたいな聞き方で探りを入れてくるケースが多い。
20年以上だね、と答えると、「おいおい冗談だろ」という顔をされる。実は6歳から勤めてるんだよ、と付け加えると高打率でウケる。そのあと46歳だよ、と追い打ちをかけ、2段オチでツカミはオッケー。
相手が探りを入れてこない場合には、なるべく早く、さり気なく、年齢やキャリアが伝わるようにする。

と、ひと工夫してネタとして逆手に取ることもあるが、基本、若く見えて良いことはない。
年功序列社会である社内では、いまだにオジサマ方から「高井くん」と呼ばれることが少なくない。四十半ばで君付けねぇ…と本人は思わないでもないが、呼び捨てにされるよりはマシか、とあきらめている。
同期入社組の皆さんが年々貫禄を備えていくなか、「高井くん」は相いも変わらず、雑用を気楽に頼まれたりするのだった。

作家業ではお得?

「プライベートでは若く見えた方がモテるのでは?」という側面については、諸般の事情に鑑み、踏み込んだ考察を避けておこう。
一言だけ、「これくらいの歳のオッサンになると『モテ』の重要度はとても下がる」とだけ付け加えておく。

それよりも、「高井浩章」という作家業(なんだろうか?)というか、ライターのような立場でお仕事をする上では、見た目が若いのは、どうもお得な面が多いように思う。

「20年超の経験をもつ新聞記者」なんていうキャリアは、客観的にみると、ちょっと怖そうな感じがしませんか?
で、会ってみると、実物は貫禄というか威圧感ゼロなので、初対面でも打ち解けてもらいやすい。
お付き合いのある編集さんなどはほとんど(全員?)が何歳か、あるいは「一回り」以上年下なのだが、フラットに話ができていて、大変心地よい。大物ジャーナリスト然とした外見だったら、原稿にあれこれ注文をつけるのも遠慮されそうで、威厳がない人格と外見で良かったな、と思う。
みなさん、今後も遠慮なく、お願いします。

お父さん業では中立

父親として、つまり娘たちにとっては、私の見た目はどうでも良さそうで、見た目年齢は中立要因と思われる。
ただ、あえて言えば「若く見せようと努力するのはマイナス」に働きそうな感触がある。
実はこの1年でちょっとお腹が出て、体重も増えてしまった。
数キロの単位なので、少し運動なりダイエットなりをすれば、もうちょっとシュッとした感じになりそうなのだが、娘たちには「お腹がちょっとポッコリしていた方が良い感じ」と現状維持を求められている。
本人としては、健康診断でも引っかかったし、疲れやすい気がするので、もうちょっと絞りたいと思っているが、やりすぎると不評を買いそうで、バランスが難しい。

「30ぐらいでみなオトナ」社会に

さて、私自身の「体感的な総収支」で言うと、日本の社会では、若く見えるのは若干マイナスだと思う。
体力の話ではなく、あくまで「見た目」だけなら、若いのは、損だ。

それは日本が旧来型のエスタブリッシュメントが幅をきかせる硬直的な社会であり、その旧来型システムはオジサン属性を帯びており、オジサン社会は定義に近い形で年功序列的であり、平成も終わろうというのに、そんなシステムの根はしぶとく方々に張り巡らされているからだ。

見た目が妙に若い私のような人間は「実はちゃんとオッサンである」ことを周知しておかないと、下っ端扱いされる。つまり、損をする。
若いうちは『モテ』のメリットで帳消しにできる期間があるかもしれない。
でも、四十も半ばを過ぎれば、そんな要素のウエートは限りなく小さくなり、バランスは大きくマイナスに傾く。

ふと、女性はどうなんだろう、と考察しようと思ったが、男以上に複雑怪奇なファクターが入り乱れていて、下手に触ると火傷しそうなので、やめておく。女性ライターの皆さんにお任せしよう。
ちなみに「おカネの教室」の担当、編集アライは、30歳手前にして威圧感と包容力を備えた女傑で、最近、お母さんになってさらにパワーアップしているとみられる。続編の作業が、楽しみなような、怖いような。

閑話休題。

ということで、見た目で損している私が漠然と願うのは「30歳ぐらいで、男も女も、みんな『オトナ』というカテゴリーでフラットに付き合える」という感じの社会の在り方だ。
20歳でも良いのだが、我が娘(もうすぐ19歳)を見ても、オトナに仕上がるにはあと数年かかりそうだ。会社の若い人を見ても、数年は猶予期間をみてあげても良いように思う。

では、オトナ、とは何だろうか。
ここで、誤解を承知で、敬愛する山本夏彦翁の言葉を引用したい。

人はアプリオリにケチで、いやしい存在である。それを承知の発言でなければ、一人前の男の発言とはいえない。人はアプリオリに清く正しい存在だと、終始言い張るのは女と子供である。(「編集兼発行人」より)

夏彦節で、女性蔑視の一文にもみえるが、真意はそこにはない。「男」を「オトナ」、「女」を「半人前」と読み替えれば、違和感はないだろう。

実社会に出て何年か過ぎれば、サラリーマンだろうと、フリーランスだろうと、夏彦翁の言葉に頷くしかないような経験をするものだ。
「『日本のヒルビリー』だった私」というコラムで書いたように、人は見かけによらない人生行路を歩んでいたりもする。
経験がモノを言うこともある一方、「年寄りのバカほどバカなものはない」なんていう言葉もある。

「人生ってあれこれ大変だ」と思えるようになったら、歳や見た目は関係なく、「いろいろあるけど、やることはキッチリやって、せいぜい楽しく生きていきましょうよ」という、「対等なオトナのお付き合い」ができるようになればなあ、と、取りとめもなく考えしまうのは、今日で約2週間あまりの長期休暇が終わるからだろうか…。
そんな変な考えでもないと思うのだが、日本って、どうして、みんなして息苦しい方向に突っ込んでいくんですかねえ…
ヒゲでも生やすかな…。

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