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「不良品」などいないが、孤独は人を喰う ある連続殺人犯の父の手記

2019年5月28日、川崎市で痛ましい無差別殺傷事件が起きました。
被害者とご家族など関係者にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
以下の文章は敬称略とします。

広がる殺傷事件の波紋

20人もの死傷者を出し、犯人が自ら命を絶った川崎市の事件は、様々な反応を引き起こした。
話題になったのはタレント松本人志のテレビ番組での発言だ。

「人間が生まれてくる中で、どうしても不良品っていうのが何万個に1個、これはしょうがないと思うんですね」
「何十万個、何百万個にひとつくらいに減らすことはできるのかな、みんなの努力で」
「こういう人たちがいますから、その人たち同士でやりあってほしいですけどね」

この「不良品」という言語道断の言葉と、生放送でもないのにそれを垂れ流した番組制作の姿勢は、強い批判を浴びた。

もう1つ、議論を呼んだキーワードが「ひきこもり」だ。
川崎の事件の50代男性容疑者が「ひきこもり傾向があった」と当局が公表し、それを事件と関連づける報道等が相次いだことに対して「ひきこもりUX会議」が声明文を出した。
全文はこちらのリンクから。以下、一部を抜粋する。

川崎殺傷事件の報道について(声明文)

(略)

「ひきこもり」への偏見の助長の懸念


(略)
ひきこもっていたことと殺傷事件を起こしたことを憶測や先入観で関連付ける報道がなされていることに強い危惧を感じています。
「ひきこもるような人間だから事件を起こした」とも受け取れるような報道は、無関係のひきこもり当事者を深く傷つけ、誤解と偏見を助長するものだからです。

「犯罪者予備軍」というイメージに苦しめられる

これまでもひきこもりがちな状態にあった人物が刑事事件を起こすたび、メディアで「ひきこもり」と犯罪が結び付けられ「犯罪者予備軍」のような負のイメージが繰り返し生産されてきました。社会の「ひきこもり」へのイメージが歪められ続ければ、当事者や家族は追いつめられ、社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません。

「8050問題」への誤解を引き起こす

また「8050問題」とは、ひきこもり当事者とその家族の高年齢化傾向にともなう課題を指しており、今回のような犯罪行為に結びつく可能性を含む問題という意味ではありません。今回の事件と関連づけて「まさに8050問題」と表現することも適切ではないと考えます。

(略)

私たちが接してきたひきこもりの当事者や経験者は、そうでない人たちと何ら変わりありません。「ひきこもり」かどうかによらず、周囲の無理解や孤立のうちに長く置かれ、絶望を深めてしまうと、ひとは極端な行動に出てしまうことがあります。事件の背景が丁寧に検証され、支え合う社会に向かう契機となることが、痛ましい事件の再発防止と考えます。

(略)

一般社団法人ひきこもりUX会議
2019年5月31日

「8050問題」とは「親が80代、子が50歳前後でひきこもり」という状態の世帯を指す。かつては「若者と働く親」の問題だった「ひきこもり」が、高齢化で一世代上にずれ、より深刻化している現状を示す。

この声明からわずか数日後、76歳の元農水事務次官が44歳の息子を刺し殺す事件が起きた。
エリート一族のなかで落ちこぼれて「ひきこもり」となり、自宅近くの小学校の運動会に対して「うるせえ。子供らをぶっ殺すぞ!」と怒号を浴びせる我が子に、「川崎のような事件を引き起こしかねない」と思い悩んだ末の父親の犯行だったとみられている。このリンクの記事で一連の報道を元木昌彦が簡潔にまとめている。

一連の事件、問題についての私の考えは最後に詳述したい。
結論だけ先取りすれば、「人間に『不良品』などいないが、『孤独』に喰われると、人間はモンスターにもなり得る」というものだ。

私をこの考えに導いた1冊がある。
カバー画像の「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」という本だ。

絶版のようで、定価1600円の本書は2000~3000円、一部は1万円前後の高値で古本が流通している。

米国史上最悪のシリアルキラー

連続殺人という犯罪に関心がある人なら、ジェフリー・ダーマ―の名は聞いたことがあるだろう。1993年、2002年、2006年、2017年と4度も映画化されている、この分野では著名な人物だ。
Wikipediaのジェフリー・ダーマ―の項の冒頭を引用する。耐性が低い方はリンクは開かない方が良いかもしれない。

ジェフリー・ライオネル・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960年5月21日-1994年11月28日、以下ジェフリー)は、アメリカ合衆国の連続殺人犯。ミルウォーキーの食人鬼との異名を取る。
1978年から1991年にかけて、主にオハイオ州やウィスコンシン州で17人の青少年を絞殺し、その後に屍姦、死体切断、人肉食を行った。その突出した残虐行為は、1990年代初頭の全米を震撼させた。

こちらの長文記事に生涯と犯行について詳しい記述がある。同じく、閲覧注意である。耐性が高く、すでに事件に詳しいはずの私でも、読み返すと気分が悪くなる。

私は高校から大学にかけての時期、年代で言うと1980年代後半から90年代半ばにかけて、シリアルキラー関連の本を読み漁った。
宮崎勤による連続幼女殺人事件が88~89年、映画「羊たちの沈黙」の公開が1991年という時代で、連続殺人や犯罪心理学の本は一種のブームの時期にあり、それほど奇異な読書傾向というわけではなかっただろう。
同じ時期にホロコーストやポルポト政権など大虐殺に関する本も幅広く読むようになった。
根っこには「人間はどんな条件下で非人間的なほどの残虐性を持ちうるのか」という疑問があった。そうした読書はまだ続けていて、最近では歴史家ティモシー・シュナイダーの著作に大いに学ぶところがあった。

1995年刊の「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」は、当時としては「連続殺人犯の実の親による史上初の手記」として話題になった。
犯罪者の家族による手記はその後、それなりの数があり、私は未読だが、直近ではコロンバイン銃乱射事件の母親の手記が邦訳されている。

手元の「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」は初版本だ。就職した年の夏に出た邦訳を私は発売直後に買い、これまでに4~5回、再読している。
今回、この文章を書くために読み返し、「引用するかもしれない」と思った個所に付箋を貼っていった。それは膨大な量になった。

以下は「ここは」と思った部分を選んだ抜粋だ。一部はかなり長い引用になるのをご容赦願いたい。
その後で私の考えを述べる。

序文「これほど自分を責める父親を見たことがない」

本書は出版前から「息子の残虐な犯罪を印税稼ぎに使うのか」という批判を浴びた。実際には父・ライオネル(ジェフリー・ダーマ―のミドルネームは父からとられている)が冒頭の「謝辞」で記すように印税は犠牲者の遺族への償いに当てる意向だった。Wikipediaによるとそれも諸事情で滞ってしまったようだ。

こうした批判もあり、原題は"A FATHER'S STORY"と簡潔で、オリジナルの装丁は極めて簡素なものだった。

謝辞に続く「本書に寄せて」という序文は米小説家トマス・H・クックによる。「記憶」シリーズで日本でも知られたクライムノベルの名手で、私も「緋色の記憶」など数冊読んでいる。
クックは父ライオネルに代わって、事件の発覚時の状況を簡潔に記している。さきほどのリンク同様、耐性の無い方は次のボックスは飛ばしてほしい。

ドレッサーの開いた引き出しには、いろんなふうに手足を切断された若い男たちの死体を撮ったポラロイド写真が乱雑に入っていた。のちに行われた捜索では、冷蔵庫から人体の部位、クロゼットからぶらさがっていた人間の頭蓋骨ひとつ、ガラス瓶に入ったホルムアルデヒドに浮かんだ男性器、ほかのいろいろな容器に詰め込まれたヘドロのように腐りかけた骨や内臓が発見された。ジェフリー・ダーマ―のなんとおおぞましいコレクションだった。
(「我が息子ジェフリー・ダーマ―との日々」p12)

「出版は売名行為ではないか」という批判をクックは明確に否定する。

この本をつくる過程で彼といっしょに働いていたときも、この懺悔ーーほかにいい言葉が見つからないーーの目的がおかねであるなどという印象を、私はまったく受けなかった。それどころか、私が見たのは、息子のおそろしい行為と父親としての自らの態度を真摯に見つめようとする姿だった。ことあるごとに判断を誤ったのではないか、なにもかも軽く考えすぎていたのではないか、なんらかのサインに気づかなかったことが息子の錯乱を引き起こしたのではないかと悩む男の姿を、私は見てきた。父親がこれほど自分を責める姿を、私は見たことがない。(同、p16)

「ジェフは少年時代に完全な孤独に悩み始めた」

ジェフリー(ジェフ)・ダーマ―は1960年にライオネルと、最初の妻ジョイスとの間に生まれた最初の子どもだった。数年後、弟のデイヴィッドが生まれる。
ジョイスは鬱病の気があり、つわりも酷く、妊娠中も鎮静剤など「ときには一日に二十六錠もの錠剤を飲んでいた」。この妊娠中の服薬が胎内のジェフの発達に影響を与えたのではないかという仮説があるが、因果関係ははっきりしない。
最後には離婚に至るジョイスとの結婚生活は最初から困難を抱えたもので、ライオネルは家庭から逃げるようにして博士課程の勉強に打ち込む。
ライオネルは生来、他人の感情を理解したり思いやりを示したりするのが苦手で、この後も完全に制御された化学の世界への逃避をくり返す。
そして、この他者との共感の欠如・不足という側面は息子ジェフに色濃く受け継がれる。

それでも幼子を授かった夫婦はそれなりに幸せな時期もあった。
幼児期のジェフは活発に歩行器でそこら中を縦横無尽に歩きまわり、ぬいぐるみやブロックで遊びまわる普通の子どもだった。ライオネルはジェフをパレードやお祭り、動物園に連れて行き、庭にはブランコと砂場を作ってやっている。

こうした期間のあいだずっと、ジェフは幸せそうで、闊達な子供だった。私が仕事場から夕食を食べに帰ると、彼は一目散に走ってきて私の腕のなかへ飛び込んだ。ひたむきで、表情が豊かで、遊ぶことと寝るまえに本を読んでもらうことが大好きな子だった。(同、p42)

ある日、父子で自転車に乗っていたとき、ジェフが突然、「止まって!」と叫んだ。ライオネルが見落とした、巣から落ち、傷ついたヨタカだった。
家に連れて帰り、家族は小鳥の世話をした。傷を手当てし、哺乳瓶でミルクを飲ませ、徐々に固いエサになじませていった。

私たちはついにそれを外に連れ出してはなしてやった。うららかな春の日だった。なにもかも緑に色づいていたことを、私はいまでも思いだすことができる。
鳥は両手でくるむようにしてもち、腕を高くさしあげて手を開くと、それは羽ばたいていった。羽を広げ、空中に舞いあがっていった。ジョイスとジェフと私の三人は、このうえない喜びを感じた。ジェフの目は大きく見開かれて、きらきらと輝いていた。彼の人生のなかでは、この瞬間こそもっとも幸せなときだったかもしれない。(同、p43)

ジェフリー・ダーマ―が凶悪極まりない殺人者だったことは疑いがない。
それでも、いや、だからこそ、私は本書を読み返すたび、この箇所に胸を打たれる。
あえて言えば、彼ですら、決して生まれながらの「不良品」ではなかったのだ。父親を慕い、小さな命を救うことに感動する少年だった。


だが、幼少期から不吉な兆候があったこともまた否定できない。
それは「骨」に対する執着だ。
ジェフが4歳だった時、ライオネルは自宅の床下からの異臭に気づいた。そこを食事場にしていた野生のジャコウネコが残していった動物の死骸が発するものだった。
ライオネルは床下にもぐりこみ、バケツいっぱいの骨を回収した。ジェフはバケツの骨を熱心にながめ、何本かをつかみだしては地面に落とし、骨が砕ける音にうっとりとした表情をみせた。興奮して声を立てて笑った。

私はあの日の午後に見た息子の姿をたびたび思い出す。小さな手を骨の山に深く突っこんでいた姿を。その光景は、もう子供のころのたんなるエピソードに思えない。過ぎ去った昔の幻影とは。なんの意味もないことだったかもしれないが、いまはどうしてもちがったふうに思えて、もっと邪悪な気味の悪い出来事だったように思えてしかたがない。かつてはかわいい息子のほほえましい思い出にすぎなかったのに、いまは彼の運命の前触れだったように思え、想いだすたびに崖っぷちに立ったような寒気をおぼえる。
息子のなかで暗い陰りのあるよこしまな力が育っていたのではないかという思いのせいで、いまやジェフの子供のころの思い出は、ほとんどが色合いを変えてしまった。ある意味で、彼の子供時代はもう存在しない。(同、p49)

1966年、ジェフリー・ダーマ―は、大きな転機になったと思われる病気を患う。鼠径部のヘルニアで、医師から「先天性の欠損症で手術が必要」と診断される。術後、鎮痛剤が切れると、ジェフは痛みに苦しむ。母親に「オチンチンを切り取られたのか」と尋ねたという。
これが深いトラウマになったとみられ、その後、ジェフは活発さを失い、「永久に続くのではないか」とライオネルが思うような無気力状態に陥った。

彼はますます内向的になり、何時間もじっとすわって妙に無表情な顔をしたまま身じろぎもしなかった。(同、p54)

ジェフの精神は明らかに危機のサインを発していたが、ライオネルは博士号の取得と化学プラントで得た研究職という自分の世界に逃げ込み、母親ジョイスは2人目の妊娠で再び薬漬けの抑うつ状態に陥った。
そんな時期に、一家は引っ越しを決めた。内気なジェフの顔には転校初日、「恐怖の色がうかんでいた」という。懸念通り、ジェフは新しい環境になじめず、孤立感を深めていった。
自身も周囲に溶け込めない子供時代を過ごしたライオネルは、息子の苦境を理解しているつもりだった。いや、理解していると自分を納得させて、現実から目をそらしていた。

私は間違っていたことがわかった。ジェフの少年時代の状態は、私の少年時代の状態よりはるかに深刻だったのだ。私が内気な自分に悩んでいたのは一時期だったが、ジェフは完全に孤独な状態に悩みはじめていた。(中略)息子をむさぼり食いはじめていた巨大な顎から救い出す手が、なにかなかったのか?(同、p60)

この時期の出来事として、ライオネルは象徴的なある思い出を記している。
ある雨の日、車で帰宅したライオネルはぬかるみにはまって抜け出せなくなったジェフをみつける。両手を振り回してもがき、大粒の涙を流して完全なパニック状態に陥っていた。

私は大急ぎで駆け寄り、泥から彼を救い出し、腕のなかでしっかりと抱きしめてやった。彼の顔には生還した喜びが輝いていた。(中略)あのときの彼の甘い吐息、目に浮かんでいたありあまるほどの感謝の表情を、私はいまでも忘れることができない。
あのとき息子がどんなふうに感じたか、いまの私にはわかっている。恐ろしい運命にのみこまれようとしたところを父親に救われたジェフは、おそらく幼い心のなかで、危険が迫ったらかならず私が救い出してくれるのだと信じたにちがいない。
けれども、ジェフに迫っていたもっと危険な部分が、私には見えなかった。(同、p61)

ジェフが7歳の時、一家は再び引っ越しを決める。
幸運なことに、この転居でジェフはリーという友人ができ、3年生のときにはクラスの担任教師の助手の女性に好意をいだくところまで学校にも溶け込んだ。

なぜジェフがその女性を好きになったかははっきりしない。後年、尋ねると、ジェフは「ぼくにやさしかったからさ、たぶん」と素っ気なく答えたという。
だが、このジェフの「初恋」ともいえる好意は、不幸な結末を迎える。
小さな子供らしく、ジェフは学校の裏の小川で捕まえたオタマジャクシをこの女性助手にプレゼントした。この無邪気な贈り物を、助手は、こともあろうに、ジェフの友人のリーにあげてしまった。
それを知ったジェフはリーの家のガレージに忍び込み、容器にモーター・オイルを流し込んでオタマジャクシを殺した。

私が知るかぎり、ジェフが暴力的な行為をしたのはこのときがはじめてだった。彼を支えていた「たが」の一本が突如はずれ、成長とともにどんどんふくらんでいたジェフの暗い部分が、ほんの一瞬、オタマジャクシの入ったボウルにモーター・オイルをそそぎこむ少年という姿になって現れたのだ。
それから数年間、その暗い部分は息子のなかでさらに大きく力強さを増していき、ついには芽生えつつあった性と結びつき、その後は完全に彼を食いつくしてしまった。(同、p66)

「ジェフは、ただひたすら孤立していった」

成長するにつれ、ジェフリー・ダーマ―の心身には歪みがはっきりと表に現れてきた。

彼の姿勢、彼の体の動きが十歳から十五歳にかけて急激に変化した。手足のくにゃくにゃした少年の姿は影をひそめ、体がやけにぎくしゃくして柔軟性に欠ける少年がそれに取って代わった。(中略)
この時期、ジェフはますます内気になっていった。そして、他人が近づいてくると、とても緊張した。(中略)おそらくは武器のようなものを手にしていないと他人と面と向かえないかのようだった。
ジェフはますます家に閉じこもりがちになり、ひとりで自室にいるかテレビを見ているようになった。顔の表情はいつもうつろで、目的もなく、現実から遊離してふさいでいるという印象を、多少なりとも人に与えるようになっていった。(同、p70)

このころ、夫婦間に不和を抱えながら、両親は息子にスポーツなどに興味を持たせようとあれこれと働きかけをしている。だが、いずれも長続きはせず、「ひきこもり」は一段と強まった。

そして、孤立していく過程で、ジェフリー・ダーマ―はのちの凶行につながる「骨・死体への執着」を膨らませていった。

私の知らぬ間に、骨に対する彼の妄想は着実にふくらんでいき、思春期の強迫観念にまでなっていた。(中略)自転車には、道すがら見つけた動物の死骸を回収するためのビニールのゴミ袋が積まれていた。そして動物の死骸を集めては、自分で墓をつくっていた。また、路傍で腐りかけた動物の死骸から肉をはぎ取ったり、杭に犬の頭を刺したりしていたという。
(中略)
ジェフは、さらに受動的で、さらに孤独になり、ただひたすら孤立していった。彼には男の友だちも女の友だちもいなかった。
(中略)
それから何年かのあいだに、空想は彼を圧倒していった。ジェフは、殺人や人体切断の幻想に取り憑かれていった。ぴくりとも動かない死体が、高まる彼の性的欲望のおもな対象になった。
(中略)
口にするのもはばかられる幻想や欲望に蝕まれ、自分を人間社会の枠からはみ出た存在と見ていたとしか私には思えない。ノーマルで許容できる限度、他人に受け入れてもらえる一線をはみ出た存在と。すくなくとも、自分をすでに捕らわれの身、すでに呪われた身として見ていたに違いない(同、p73~75)

このころ、ライオネルは仕事でトラブルを抱え、結婚生活も破綻状態にあった。育児では下の息子デイヴにかかりきりで、ジェフとの距離は遠ざかっていた。
ジェフは、おそらく自身の中で膨らむ怪物から逃れるため、酒に走った。ハイスクールを卒業するころには完全なアルコール中毒になるような状態だったのに、それをライオネルは見逃している。それほどダーマ―一家の生活は乱れていたのだろう。
アルコールに溺れたのは、自分が同性愛者だと自覚したのも一因だったようだ。当時の米国でホモセクシャルであることの困難さは、今の比ではなかっただろう。
そして、ジェフの中のモンスターは、性衝動の強まりとともに、巨大化していった。

十五歳になるまでに、彼の心は完全に悪夢の世界と融合しはじめていた。そしてその世界は彼を乗っ取ると、十代の少年にとってもっとも強い力となる性衝動の発達と手を結び、息子の内面の生活のあらゆる部分に指図をしはじめた。死とか人体の切断という気味の悪い概念が性衝動とともに充電され、性衝動とともに煽られ、性衝動とともに充足された。
(中略)
その当時、彼は最低限の努力しかせず、家でもさらに自室に引っこみがちになっていた。広がるべき人との交わりも、彼の心の領域ほどにせまくなり、彼の空想の世界では友人は亡霊にすぎず、恋人は動かない肉のかたまりにすぎなくなった。(同、p77)

1977年、ジェフが18歳になろうというころ、ついにライオネルはジョイスと離婚した。ライオネルは42歳だった。
息子2人を連れたジョイスと別居し、傷心のライオネルはシャリ・ジョーダンという女性と親しくなる。2人はのちに結婚する。

別居してしばらくして、前妻ジョイスと連絡がとれなくなった。息子2人と一緒に住んでいるはずの家に電話をしても通じない。
ライオネルが直接訪ねると、そこにはジェフ1人が残されていた。
本書では詳しい経緯は省かれているが、結果的に両親がジェフを一時的に見放した状態になっていた。

「私だけの力で息子が救えるとは思えない」

この完全な孤独の時期に、18歳のジェフリー・ダーマ―はついに一線を超えた。最初の殺人を犯したのだ。
以下、最初の犯行について、Wikipediaから引用する。孤独と性衝動の暴走が連続殺人犯を生んだことがわかる。
ショッキングな内容なので、苦手な方は下のボックスはスキップした方がよい。

高校卒業を孤独のうちに迎えたジェフリーは、その数日後、町外れでロックコンサート帰りの19歳のスティーブン・ヒックスというヒッチハイカーを拾った。音楽の趣味が合い、また彼好みのタイプだったことから、酒とマリファナで自宅へ誘った。
両親が離婚して以来、空き家となっていた自宅にヒックスを連れ込み、住んでいたころの思い出を語り聞かせた。ジェフリーは、人と打ち解けることの喜びを初めて味わったが、彼が父親の誕生日祝のために帰宅すると言い出した。
彼を帰したくないジェフリーは、手近にあったダンベルでヒックスを背後から殴って、気を失ったところを絞殺。死体の衣服をはぎ取って肛門を犯し、ナイフで腹部を切り裂くと、鮮血をすくって体に浴びた。その内臓を床に広げて血だらけにし、その上を転がって射精した。その後死体を床下へ運び込み、バラバラに解体した。しばらくは手元においていたが、腐敗しだしたため、首以外の部分はゴミ袋に詰めて近くの森に埋めた。
これが、ジェフリーの初めての殺人である。この殺人は衝動的なものであり、長くジェフリーのトラウマとなることとなった。この事件以後、彼はますますアルコールに依存することとなる。彼は逮捕後、この事件を「もっとも思い出したくない出来事」として語っている。

我が子がすでに殺人者となってしまった事実を知らないライオネルとシャリは、ジェフの更生に向けて大学進学や軍への入隊、就職などを勧める。
だが、すでに自らの尋常な人生の道は閉ざされたと自覚し、アルコール依存をますます深めていったジェフには、何の効果もなかった。
結局、ジェフを持て余した2人は、厄介払いをするように、ウィスコンシンの郊外の祖母の家に彼を送りこむ。
この祖母の家でジェフは悪魔信仰や交霊術のような奇行だけでなく、地下室で殺人を繰り返したことが後に明らかになる。

1988年にはジェフは祖母の家を出て、アパートメントで一人暮らしを始めた。

彼を保護し、ある意味では管理していた構造が、突如としてなくなった。十八歳のとき、ジョイスが家にひとりでのこしてきて以来はじめて、ジェフはひとりでくらすようになった。(「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」 p122)

1人暮らしの初日に、ジェフは13歳のラオス人の少年を自宅に引き込み、薬物で自由を奪い、性的虐待を行った。
少年が何とか逃げ出し、ことはすぐ警察の知るところとなり、ジェフは5年の保護観察処分を受ける。当局の指示でジェフは祖母の家に舞い戻る。
この事件を契機に、ライオネルの息子を見る目はようやく変わった。

親の目から見ると、子供はいつでも贖いがきくように思える。子供がどれだけ深く沈んでいようと、命綱をつかみさえすれば無事岸辺まで引き寄せることができると親は信じている。
(中略)
けれどもジェフが判事に語りかけている姿を見ていたとき、突如私はよるべなさを感じた。突如として、そしてはじめて、私は自分の努力や経済的支援だけでは息子を救えるとは思えなくなった。なにか基本的なものが欠けている若い男の姿が見えた。(同、p128~129)

ライオネルはその後、アルコール依存症の治療施設や司法の手を借りて、息子の更生の道を探る。
だが、それはもう、手遅れとしか言いようがない、無駄なあがきだった

1990年春、ジェフは保護観察官への定期訪問を除けば、完全に自由の身となった。
そして、最終的に逮捕現場となるミルウォーキーのスラム街のオクスフォード・アパートメント213号室に居を構えた。ここは事件後、「ジェフリー・ダーマ―の神殿」という異名で呼ばれることになる。
91年7月に逮捕されるまでの1年余りのあいだに、ジェフリー・ダーマ―はこのアパートメントで少なくとも11人を殺害した。

この逮捕場面で「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」の第一章は終わっている。

「こんなふうに生きていくことはだれにもできない」

逮捕後を回顧する第二章は、大きく2つの要素で成り立っている。
1つは、事件が巻き起こした、メディアスクラムを含むセンセーショナルな反応への苦悩と戸惑いを綴った体験記。この部分も、現代にも通じる問題として読みごたえはあるが、目新しいものではない。
より興味深いのは、もう1つの柱、人類史上屈指の怪物となってしまった息子と、ライオネル自身の生い立ちや内面との共通点を辿る内省のパートだ。
この2つをつなぐ、ジェフの逮捕直後の印象的なエピソードを引く。

三人。
三件の殺人。
すくなくとも。
そんなことを聞かされたら、父親はいったいどうするだろう?
私は、いつもしていることをした。怒るわけでもなく気むずかしくなるわけでもなく悲しみに打ちひしがれるわけでもなく、奇妙な沈黙状態に入った。(中略)母に電話するちょっと前までやっていた通常の仕事に機械的に戻った。このときは、二酸化ケイ素の分析方法を編集する作業だった。うやうやしく、慎重に、あらゆる神経を集中して、化学方法論に集中した。
(中略)私は、安定していて予測できることだけが起こる場所、つまり研究室という昔からの避難場所へ否応なしに戻っただけなのだ。(同、p152~153)

報道の洪水が始まり、自分の母親の自宅も強制捜査で修羅場と化した。
そんななかでライオネルは現実逃避に走った。事件が発覚した初日に彼がもっとも恐れたのは、自分がその後、「ジェフリー・ダーマ―の父」として完全にプライバシーを失ってしまうことだったという。

この奇妙な反応には、他者への共感や人間の感情の機微をつかむのが苦手なライオネルの性格がはっきり表れている。それはジェフにも共通する、彼の人生を困難にした側面でもあった。
その後数か月、ライオネルはジェフが起こした事件と直面することを避け、まるで自分とは関わりのない別世界の出来事のように考えようとした。それは自己防衛手段でもあったのだろう。
2人目の妻のシャリは、ライオネルより共感力が高く、現実主義者でもあった。

私は彼女の緊張を感じ取ることができたから、それを解いてやろうとした。
「そのうちなにもかも終わるさ」私は彼女に言った。
彼女の答えは、穏やかだがきっぱりとしていた。「けっして終わらないわよ」と、彼女は言った。
シャリの言うとおりだった(同、p158)

事件以降、2人は宿泊先では偽名を使い、レストランに入れば「あなたたちを知っている」と声をかけられる、「ダーマ―夫妻」というある種公的な存在になってしまう。

ライオネルはミルウォーキー郡拘置所に収監されたジェフに面会に行く。憔悴しきった様子のジェフとの会話で、ライオネルは初めて絶望を味わう。

私を見ても、彼はなんの感情も表に出さなかった。かすかな微笑みも浮かべなかったし、きてくれてうれしいという表情も見せなかった。「どうやら今度こそおしまいみたいだ」彼は、それだけしか言わなかった。それから、いままで何度も口にしてきた常套句を、ひとことつぶやいた。「ごめんよ」
私はまえへ進み出て、息子を腕のなかに抱き、泣きはじめた。私に抱かれているあいだ、ジェフはまったくなんの感情も表さずにじっと立ちつくしていた。(同、p170)

すべての感情を失った息子ジェフとライオネルは、祖母のこと、庭のバラのこと、飼っていた猫のことなどとりとめもない会話を続ける。こうした、問題が起きた際にも正面から向き合わない、焦点を外したやり取りは、この父と息子の長年の習慣でもあった。
精神病治療のような助けが必要だという父の言葉にも、ジェフはほとんど反応を見せない。
面会の最後のやり取りで、ライオネルはジェフの心が修復不能なところまで破壊されていることを知る。

「ごめんよ」彼は再び言ったが、感情がまったくこもっていなくて、火が消えたような口調だった。自分がしたことのとてつもない重要さを理解していないようだった。「ごめんよ」彼は、くり返した。
ごめん?
なにに対して謝っているのだろう?
自分が殺した人たちに?
被害者の家族の苦悩を思って?
おばあちゃんの苦しみにたいして?
自分の家族が崩壊しそうなことにたいして?
ジェフがなにに謝っているのかは、まるでわからなかった。
息子の狂気の全容をかいま見た思いがしたのは、まさにそのときだった。顔にのこった傷痕のように、それを物理的に見ることができた。
だれにすまないと思っているのか、あるいはなにに謝っているのかわからなくてあたりまえだった。彼には後悔の念を演出することができなかった。それどころか、それを実際に感じることができなかった。自責の念というのは彼の理解を超えたもので、よその銀河系に住んでいる人たちが感じる感情のようなものだった。そんな感情とはまったく無縁で、それを感じているような演技をすることもできなかった。彼が発した”ごめんよ”という言葉は、過去のひからびた品物のようなもので、まだ何かを感じることができた遠い昔から保存されてきた遺物なのだった。
突如、私はジェフの子供のころのことを思った。もはや内気では片づけられない彼の近寄りがたさを。その近寄りがたさは断絶に等しく、橋を架けられない奈落への入口が目のまえにあるようだった。彼の目はたんに無感情というだけでなく、空虚で、人間が基本的にだいじにしなければならない共感とか理解を寄せつけず、そういう感情をまねる能力さえうかがうことができなかった。私のまえに立ったその瞬間、息子はおとなになってからはじめて、自分のほんとうの姿を提示したのだ。感情がなく、さまざまな情緒を最小限までそぎ落とし、深く、深く病んだ若者の姿を。そんな人間にとって、十中八九出口はないのだ。
ジェフは自分を殺すだろう。私は奇妙な確信をもって思った。こんなふうに生きていくことはだれにもできない。(同、p174~175)

この後、報道と法廷で、事件の恐ろしい詳細が次々と明らかになっていくなかで、ライオネルはそれをどこか他人事のように消化した。

ジェフの裁判は息子や私の内面にまで踏み込んできたりはしないだろうとたかをくくっていた。私は事件とはなんの関係もない第三者のような気持ちで裁判を傍聴し、弁護側の弁護テクニック、ジェフの狂気を証明しようとする努力だけに注目していた。(中略)私はどの証拠ももっぱらジェフとだけつながっていて、たんなる弁護のテクニックとして法廷で暴露されただけであり、ジェフの人間性をきめつけているわけでもないし、まして私を含めたより広範囲な事情までうんぬんされるわけでもないと確信していた。(同、p201)

息子と距離を置こうとする自己防衛は、時間が経つにつれ、深い内省へと変質していく。

息子にはいろいろな側面、私自身にもある性向や倒錯的嗜好があったことに気づきはじめた。たしかに、ジェフはそのような性向を大幅に増大させていったし、彼の性的な倒錯は私の理解や許容範囲をはるかに越える行為につながった。にもかかわらず、私はその遠い祖先を自分自身の中に見た。(同、p201)

「私も繰り返し殺人の夢を見ていた」

ライオネルは、自身とジェフの子供時代を振り返り、暴力的な夢想に心をかき乱されていた点、特にくり返し殺人の夢を見ていたことに思い至る。

八歳から二十代のはじめまで、私は直接体験したことではないのに記憶にのこる、なにかおそろしい感覚にたびたび取り憑かれていた。現実のものではない記憶が頭にこびりついていて、だれかを殺したおそろしい夢にうなされ、突然ベッドから跳ね起きたりした。(中略)自分はだれかを理由もなく残酷にあやめたのだという思いこみを振り払うことができなかった。(同、p202)

ライオネルは自身の悪夢と、ジェフのある犯行を重ねる。87年、ジェフはツーミという若者と知り合い、2人でホテルに向かった。泥酔したのち、ジェフは第2の殺人を犯した。事件の詳細についてWikipediaを引用する。

1987年9月15日、保護観察期間が終わったばかりのジェフリーは、ゲイバー「クラブ219」でダイナーの見習いコックである24歳の白人青年と出会い、ホテルで一夜をともにした。
ところが翌朝、目が覚めると青年は口から血を流して死んでいた。のちのジェフリーの供述ではこのとき泥酔しており、一切の記憶はなく、ショックに打ちのめされたとしている。
自分が絞殺したことは間違いなかったため、事態を打開するため、クローゼットに死体を隠すと、大急ぎでスーツケースを購入、ホテルに戻って死体を詰めこむと、タクシーで祖母の家へ戻り、地下室で解体。いくつかのビニール袋に分けてゴミ収集場所に出した。
この事件に関して十分な物証を得られなかった警察は告発を断念している。

他のすべての残虐な犯罪について犯行を認めた後も、ジェフはこの殺人について「記憶がない」と主張し続けた。ライオネルは記す。

自分がツーミの体からはなれたとたんショックと恐怖に打ちのめされたのだと、主張した。彼がなにを言ってるのかわかったのは、おそらく世界じゅうで私ひとりだっただろう。私も、同じ体験をしていたからだ。唯一のちがいは、私は悪夢から目覚め、息子は悪夢へと目覚めていったことだった。(「息子ジェフリー・ダーマ―との日々」、p204)

ライオネルは、ジェフの連続殺人の根底には、人が自分から去っていってしまうという恐怖があったのではないか、と分析する。「人を自分のそばに永久に、しっかりと”とどめて”おきたい」という欲望が、死体への執着や殺人、カニバリズムへとつながったという見立てだ。
そして、それはライオネルにとってもなじみ深い感情だった。

私自身の人生を振り返っても、自分は見捨てられるのではないかという同じ恐怖がつねにつきまとっていた。その恐怖はとても強かったので、ほかの理由では説明のつかない症状がずいぶんと表面化した。(同、p205)

ライオネルは幼少期、入院した母親と離れ離れになったのをきっかけに抑うつ状態になり、吃音に悩まされるようになった。その矯正に長い時間がかかったという。
このトラウマは、ライオネルの現状維持、何かを同じ状態にとどめておきたいという、変化を嫌う性向に拍車をかけた。
そして自分の人生は「厳密に制限された役割に拘泥していた」と振り返る。

役割をきちんと果たしていれば、母親も息子もつなぎとめておけて、彼らが自分からはなれていってしまうことはないだろうと思っていたからだ。ある意味で、私もなにかをいつまでもつなぎとめておける方法、永久に手中におさめておける方法をさがして、人生を生きてきた。
けれども、もっと重要なことは、永続性や安定を求める欲求がしだいに支配にたいする欲求を芽生えさせていったことだ。それに伴って、支配できないものへの恐怖心も生まれてきた。息子の犯罪を思い返してみると、永続性と支配というふたつのテーマが黒い糸で絡み合い、それによってできた網にほかのすべてのことがくるみこまれてしまった結果、あんなむごい事件がおきてしまったと私には思える。(同、p206~207)

ライオネルは劣等感に悩んだ自分の幼少期、青年期を振り返り、近所の少女に催眠術をかけた際の性的な要素をおびた興奮や、肉体的なコンプレックスを動機にボディービルディングに励んだこと、学校で一目置かれる存在になるために爆発物を作ったことなどを告白する。

法廷にすわってあらゆる証言ーー息子の狂気や、そこからあふれ出た犯罪に関するおそろしい証言ーーに耳を傾けていたとき、私はなんとグロテスクなのだろう、なんと倒錯的なのだろうとしか感じなかった。暗い部分の多い自分の半生にも同じ欲求と衝動が巣くっていたことを、理解できないでいた。
しかし、そういう欲求と衝動は巣くっていたのだ。それは私の人生のなかにもほとんどはじめから存在していた。(同、p209)

「息子は私を許してくれるだろうか」

ライオネルは手記の最後に、テレビ番組出演時に受けた「あなたは息子さんを許しますか?」という質問への想いを記している。

ああ、許すとも。
しかし、息子は私を許してくれるだろうか?
わからない。私の息子を圧倒した衝動のいくつかは、もともと私のなかにあったものかもしれない。あるいは私が彼といっしょにやったことや、やらなかったことのなかに原因があるのかもしれないから。私や家族のほかのだれかが運命をまぬがれたのは、神の恩寵以外のなにものでもなかった。あるいは私の両親や彼らの両親の遺伝的、あるいは心理的遺産のおかげだった。だが、私が幼いころ見ていた奇妙な空想、少年のころ感じていた無力感や劣等感から生じた暴力への衝動ーーおそらくそういうものが息子にたいする私の感情を制限していたのだろうがーーなどは、きっとなにもかも私を通じてジェフへ流れ込んでいったのだ。
こうしたいろんな可能性に対するつらい思いは、痛みを伴ってとても深く私のなかに刻まれている。けれど、息子におこったことや、彼が他人にもたらした悲しみと破壊を思うと、その可能性のいちばん暗い部分について私はあらためて考えざるをえない。(同、p240)

この少し前の個所で、ライオネルはジェフが4歳ころのときのハロウィンでの出来事を回顧している。カボチャのランタンをくりぬく際、前妻ジョイスが表情を笑顔にしようと提案すると、ジェフは「怖い顔にしなくちゃだめだ」と大声で激しく抵抗した。

「いやだ」ジェフは怒って叫んだ。そして、テーブルをたたきはじめ、さらに声を荒げた。「どうしてもこわい顔じゃなきゃいやだ!」
ときどきこの出来事を思い出すと、そのこわい顔が、狂気じみた邪悪の象徴であるその顔が、私の顔でなかったとどうして言えるだろうかと思う。(同、216)

ライオネルはこの手記を次のように締めくくっている。

父親であるということは、永遠に大きな謎であり、私のもうひとりの息子がいつの日か父親になるかもしれないことを考えると、彼にはつぎのようにしか言えないし、これから父親になろうとしている人たちにもつぎのように言うしかない。「気をつけて、しっかり頑張ってほしい」と。(同、p241)

「不良品」などいないが、孤独は人を喰う

なによりも、本書は親であることのおそろしさを書きつづったものであり、自分の子供が手の届かないところへいってしまったという、すべての親がある程度かかえている恐怖の物語となっている。自分の娘や息子が、真空のなかできりもみ下降し、大渦にのみこまれてどんどん見えなくなっている物語である。(同、p17)

トマス・H・クックは序文の最後にこう記している。

幸い、私の3人の娘たちは健全に育ち、「手の届かないところ」に行ってしまうという恐怖心をもったことはない。
それでも、親になる前も、娘たちが生まれた後も、本書を再読するたび、1人の父親としてダーマ―一家が陥った奈落に思いをはせてきた。

ライオネルは繰り返し、遺伝的な要素、自身から息子が引き継いだものへの内省と恐怖を述べている。
確かに、性格や性向がある程度、遺伝の影響を受ける。それは事実だし、暴力的衝動もその一部でありうるだろう。

だが、手記の前半で振りかえっているジェフリー・ダーマ―の幼少期の姿は、彼が決して生まれながらのモンスターだったわけではないことを明確に示している。彼は、彼ですら、「不良品」などではなかった。
私にはむしろ、遺伝より、不安定な家庭環境や学校生活、それを背景に深めていった孤立にこそ、彼を深い沼へと引きずりこんだ要素があったように感じられる。
最初に抜粋した「ひきこもりUX会議」の声明文の一部を再引用する。

私たちが接してきたひきこもりの当事者や経験者は、そうでない人たちと何ら変わりありません。「ひきこもり」かどうかによらず、周囲の無理解や孤立のうちに長く置かれ、絶望を深めてしまうと、ひとは極端な行動に出てしまうことがあります。

そう、問題は「ひきこもり」かどうか、ではない。
我々はネットを通じて、世界中の人々と瞬時につながれる時代に生きている。
そして同時に、すぐ隣にいる人間とチャットアプリでやり取りをするような、奇妙な世界の住人でもある。
経済的な理由や価値観の変化で、結婚や家庭をもつという「人とのつながり」の土台として長い歴史をもつ営みも、誰もがとる選択ではなくなっている。
人口減少の中で進む地方の空洞化と東京一極集中は、人口過密化と同時に「都市の中の孤独」を加速させる。
これからも社会は変化し続けるだろう。
しかし、遺伝子の在り様に左右される生物としての人間の本質は、そう簡単には変わらない。
社会的生物として進化した人間は、孤独に対する耐性が低い。
私たちは、本能の奥底で、人との繋がり、誰かと感情を分かち合う共感を求めている。
ジェフリー・ダーマ―の「意志を持たない人形のような人間を自らの支配下にとどめおきたい」という歪んだ衝動ですら、そうした本性の発露だったのではないだろうか。
その本能を失ったとき、あるいはそれを歪んだ形で求めたときに、人間は壊れる。その絶望と狂気は、ときに自殺といった形で本人に向かい、ときに刃は他人に向かう。
孤独こそ、人を喰うモンスターなのだ。

今回の件について、ネット上では「今ほど快適に『ひきこもり』できる時代はない」といった言説も散見された。
リアルの世界を通じなくても人と人とが繋がれる、あるいは繋がりをもたなくてもネットにあふれるコンテンツとの仮想的な(と私には思える)繋がりをもって、「孤独」を逃れる道はあるのかもしれない。
それでも私は、そうした形で心身の平衡を保てるのは例外なのだろうと思う。
激しい時代と社会の変化の流れのなかでも、どこかで温もりのある、体温をもった繋がりを、人は求め続けるのではないだろうか。
その接点になるのは、ときには家族であり、ときには友人であり、職場やコミュニティーだろう。

ライオネルの手記の半ばに、こんな印象的な挿話がある。
息子が収監されて数か月がたったある日、ライオネルと妻シャルはリラックスできそうな映画を地元紙に見つけた。
それは「リバー・ランズ・スルー・イット」だった。この、モンタナの大自然を舞台とした、美しくも悲劇的な家族の物語は、ブラッド・ピットの出世作であり、監督としてのロバート・レッドフォードの最高傑作だろう。私自身、映画を何度も見返し、原作も何度か再読している。
ライオネルはこの美しい映画から、「おそろしい事実」を受け取る。

彼を愛する人たち、特に兄や両親の必死の努力にもかかわらず、道をふみはずしてしまう賢くてハンサムな少年の話だった。この映画では二回、登場人物たちがとても重要なことを指摘していた。人生の悲劇は、自分にいちばん近いところにいる人が手の届かないところへいってしまうことだと。(同、p141)

ジェフリー・ダーマ―は自らに対する死刑を望んだが、ウィスコンシン州には死刑制度はなく、15件の殺人事件に対して累計900年を超える禁固刑を宣告された。
そして1994年、コロンビア連邦刑務所で、黒人の収容者に撲殺されて生涯を閉じた。

最後にトマス・H・クックの序文から一文を引いて本稿を閉じよう。

判決が言いわたされる前、ダーマ―は判事と被害者の家族に静かに語りかけた。自分にはどんな慈悲もかけられるべきではないが、有罪を認めずに裁判に臨んだのは、”どうして自分がこんな凶悪な人間になってしまったのか知りたかった”からだと言った。(同、p14)

我々は、正気と狂気の間で危ういバランスを保っているに過ぎない、弱々しく、危うい存在だ。
孤独という奈落は、すぐそこに口をあけている。
誰にも、誰かを「不良品」などと断罪する権限も、資格もない。

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