見出し画像

「おカネの教室」第1章、第2章を全文公開!

経済青春小説「おカネの教室」の第1章「4月」を全文公開します。第2章「5月」も全文公開中。末尾にリンクがあります。

まずはキャラクター紹介。この愉快な3人組が大活躍します。

では、本編をお楽しみください!

1時間目 そろばん勘定クラブへようこそ

 思った通り、2年6組の教室はがらんとしていた。
 ちょっと迷ってから、僕は真ん中から少し窓寄りの列の、前から3番目の席に着いた。校庭からサッカークラブの声が聞こえる。ため息が出た。
 僕の中学校では毎週月曜の6時間目はクラブの時間だ。部活とは別の種目を選ぶのがルールで、僕は今年もバスケと同じくらい好きなサッカークラブを狙っていた。でも、ラッキーだった1年生のときと違って、人気のサッカーはくじ引きで落ち、第2希望のハンドボールもまさかの落選。残ったのはここだけだった。
 もう6時間目の開始時間を数分過ぎている。でも、誰も来ない。そりゃ、人気ないよな。
「ようこそ!」
 突然の大きな声に僕は飛び上がった。ドアのほうを見て、今度は目をむいた。入り口をくぐるように丸眼鏡のおじさんが入ってきた。それは、僕が今まで生で見た中で一番デカい人間だった。鼻が高くて、外国人かハーフっぽい雰囲気だ。
「では、あらためて、ようこそ!」
 デカいおじさんは体に似合わない几帳面な字で黒板にこう書いた。

 そろばんクラブへようこそ!

 そう。僕が放り込まれたのは、いまどき中学生に「そろばん」を教えようっていう、時代遅れのクラブなのだ。
「まだそろってないですね。もう一人、来るはずですが……」
 え。二人しかいないのか……。
「先に自己紹介しちゃいましょう。ワタクシはエモリと言います。江戸を守るでエモリです」
 エモリ先生が笑顔で僕をみつめる。あ、僕の番か。
「2年2組の木戸隼人です。木戸は木のドア、隼人はハヤブサに人と書きます」
「木戸孝允と薩摩隼人の合わせ技で一人薩長連合ですか。なかなかオツですね」
 これ、たまに歴史好きのオジサンに言われるネタだ。正直、反応に困る。ここで女の子が一人、ペコリと軽く礼をして教室に入ってきた。
「おお。どうぞ、好きなところに座ってください」
 僕から一つあけた廊下寄りの席に座ったその子を、僕は知っていた。小学校は別だし、同じクラスになったことはないけど、けっこうな有名人だからだ。
「さっそく自己紹介をしていたところです。ワタクシがエモリ、彼がキドくん。あなたは?」
 女の子は落ち着いたよく通る声で「2年4組の福島です」と言った。
「はい、福島さん。下の名前は?」
「乙女、です」
 エモリ先生が「おお、今度は会津に土佐ですか」と一人で嬉しそうに笑った。
「福島県が昔は会津藩だったのはご存じでしょう。乙女は土佐の坂本龍馬のお姉さんの名前です。佐幕派と倒幕の大立者の異色のコラボレーションとは、こちらもオツです」
 また歴史ネタか。ハーフっぽい顔なのに、日本史詳しいな。日本語ペラペラだし。
「幕末つながりでいいですね。せっかくですから、これから木戸くんのことはサッチョウさんと呼ぶことといたしましょう」
 いや、キド、のほうが短いし。
「で、福島さんは、オトメさん、でいいですか?」
「いやです」
「ありゃ。でも、フレンドリーにやりたいので、お二人とも、福島さんのニックネームを考えてみてください。さて、時は金なり。クラブを始めましょうか」
 僕はバッグからそろばんを取り出した。お母さんのお古の年代物だ。
 エモリ先生が「おお。サッチョウさん、用意がいいですね」とニヤニヤしている。
「あの、わたし、持ってきていません」
「ああ、安心して。ワタクシもです。しかし、いまどき、そろばんとは」
 なんという言い草だ。いまどき、そろばんクラブを開いておいて。
「今日だけじゃなく、これからも、そろばんはいりません」
「え?」
 あ、福島さんとハモッた。
「福島さん、そろばん勘定、って言葉、ご存じですか」
「損か得か、ちゃんと考えるという意味です」
「パーフェクト!」
 おお。ネイティブみたいな発音だ。
「そうです。損得、つまりお金の物差しで物事を見極める、ということですね」
エモリ先生が手早く黒板の文言を書き換えた。

 そろばん勘定クラブへようこそ!

「このクラブのテーマはそろばん勘定です。残念ですが、それは出番がありません」
 年季の入ったそろばんが急に不憫に見えてきた。しかし、妙なことになってきたな。
 エモリ先生は「では、さっそく最初の問題です」と、黒板にこう書いた。

 あなたのお値段、おいくらですか?

「大事な自分の値段です。じっくり考えてください。制限時間は5分とします」
 展開が早すぎて、僕も福島さんも戸惑い気味だ。エモリ先生だけは涼しい顔で窓にもたれて校庭を見下ろしたり、空を見上げたりしている。
 それにしても、この問題、むちゃくちゃだ。先生だったら普通、人間の価値はお金なんかじゃ測れない、とか言うもんなんじゃないの? こんなこと、考えたこともないし。困ったな。僕はしばらくして、一つ、質問してみることにした。
「あの、ヒントというか、ちょっと質問が。会社員の給料って平均どれぐらいですか」
「男性の平均年収は500万円ぐらいですかね」
そんなもんなのか。ということは、月々40万円くらいだな。エモリ先生が時計に目をやって「はい、では、サッチョウさんからどうぞ」と促した。
「えー、一応、1億円ぐらい、だと思います」
「キリがよくていいですね。根拠を伺いましょう」
「大学を出て40年ぐらい働くとして、年収500万円なら合計2億円です。生活費とかを半分ぐらい抜いて、まあ、1億円なら、いいかなって」
「エクセレント! そういう計算を生涯賃金と言ったりします。経費を考慮したのが手堅くて良いですね。うん、順調なすべり出しです。では、次、ビャッコさん、どうぞ」
 は? 福島さんも凍っている。
「あの、今、なんて」
「ああ、ビャッコさん。今、ワタクシが考えました。白虎隊は会津藩の名高い少年部隊です。薩長連合中心の新政府軍と戦い、飯盛山で自刃して果てた、旧時代の花です」
 いや、それはちょっと……。
「……ビミョー……」
 そう、微妙、だよな。少年だし。死んでるし。それに、僕が敵みたいじゃないか。
「嫌なら代案を出しましょう。文句だけ言うのはズルです」
 そう言われると、僕も福島さんも沈黙するしかない。
「では決まり。ワタクシはカイシュウさん、でお願いします。勝海舟は江戸城の無血開城をまとめた幕閣です。江戸の守りのカイシュウさん。オツでしょう」
 福島さんが諦めたように、「はい、カイシュウさん、ですね」と答えた。適応力高いな。
「あの、カイシュウ先生、でもいいですか。なんか呼びにくいので」と僕。
「お任せします。では、ビャッコさん、あらためて、ハウマッチ」
 福島さんが淡々とした声で「とりあえず、10億円ぐらいで」と答えると、エモリ先生改めカイシュウ先生が派手にのけぞった。
「これは、ふっかけてきましたね! いや失礼。では、根拠をお聞かせください」
「わたしが誘拐されたら、祖母がそれぐらいの身代金なら払うと思います」
「ほう。あまり大きな声で言わないほうがいいですね。本気で狙うやつが出てきますよ」
 丸眼鏡の奥の目が、獲物を狙う鷹のように光った。冗談に聞こえない。
「いや、実に興味深い。サッチョウさん、何かご意見はありますか」
「10億円について、ですか」
「1億と10億という、あまりと言えばあまりな差について、でもいいですよ」
 まともな先生が言うセリフじゃないよ。
「僕が高給取りになればいいんでしょうけど、そんな先のことわからないので」
「うん、実に現実的ですねえ。ビャッコさん、庶民にひと言どうぞ」
「……10億円は自分のお金じゃないです。木戸くん、じゃなくてサッチョウさんの考え方なら、わたしの値段はもっと安いはずです」
「気を遣わなくていいですよ。それに、お祖母さんのお金って言っても、一部はビャッコさんのお金みたいなものでしょう。そのうち相続するんだから」
 ここで福島さんが「そういうカイシュウさんの値段はいくらなんですか」と反撃した。
「グッドクエスチョン。いくらぐらいだと思いますか。あ、こんなおっさん、タダでも御免って顔してますね、サッチョウさん。まあ、あえて言えば、人間に値段をつけるような愚劣な行為には与したくないですね」
 ちょっと待て。
「今度はお前が言うなって顔してますね。大人なんて汚いもんですよ。それより、お二人の意見、大変面白いです。サッチョウさんは『かせぐ』という手段からアプローチした。ビャッコさんは誘拐犯が求める身代金、いわば犯罪者による『ぬすむ』という視点から考えた。誘拐をリアルに想像したことがある、お金持ちらしい発想です」
 福島さんがむっとしたオーラを発した。カイシュウ先生は気にするそぶりもない。
「ビャッコさんのほうにはもう一つ、隠れた視点がありました。相続、つまり遺産を『もらう』です。さて、ここまでに我々はお金を手に入れる方法を3つ発見しました」

 かせぐ
 ぬすむ
 もらう

 カイシュウ先生が腕時計を見た。異様に時計が小さく見える。
「そろそろ宿題を出して終わりましょう」

 この3つ以外に、お金を手に入れる方法を3つ挙げなさい

 チャイムが鳴り、カイシュウ先生はパンパンッと手をはたくと「では来週の月曜日に」と教室から出ていった。福島さんも「じゃ、また来週」と行ってしまった。残された僕は、一人で黒板を丹念に消した。

2時間目 お金を手に入れる6つの方法

 1週間が経った。月曜日の授業は、やたら長く感じる。5時間目の数学が終わってクラブの教室に行こうとしたら、担任のオギソ先生に呼び止められた。
「おい、サッチョウさん」
「何ですか、それ」
「とぼけるなよ。いいニックネームじゃないか。ちょっと時代がかってて」
 この先生、もう大きな子どももいるいい年なのに、人をからかうのが生きがいみたいなおじさんなのだ。
「エモリ先生って何者ですか? やたらデカいし、クラブ以外何もやってないし」
 オギソ先生はニタニタ笑って、僕の耳元で「まあ、あまり詮索するな。とにかくあのヒトはタダものじゃない。お前、あのクラブに入ったのラッキーだぞ」とささやいた。そして僕の肩をポンと叩いて向こうに行ってしまった。これはこの人の癖で、陰で「ニタポン」と呼ばれている。
「ビャッコさんによろしくな」
 ニタポンの笑い混じりの声を背に、僕は2年6組の教室に急いだ。

 福島さんはもう席に着いていた。先週と同じ、廊下寄りの席。僕も先週と同じように、一つあけた校庭寄りの席に座った。
「福島さん、宿題、やってきた?」
「ビャッコさんでいいよ。一応、考えたけど、自信ない。サッチョウさんは?」
「一応考えた。でも、自信ない」
 カイシュウ先生が「こんにちは!」と元気よく入ってきて、最前列の席の椅子に背もたれを抱くような格好で座った。座ってもデカいので、かなり圧迫感がある。
「さっそく始めましょう。お題は『かせぐ』『ぬすむ』『もらう』以外のお金を手に入れる方法でした。サッチョウさん、どうぞ」
「一つは『かりる』だと思います」
「はい、まずは正解。ところでサッチョウさん、誰かにお金借りたこと、ありますか」
 そうきたか。
「あります。姉に。2000円」
「ちゃんと返しましたか」
「はい。2200円返しました」
「え。利子払わなきゃ、なの? 家族で?」
「いやいや、やりますね、サッチョウさんのお姉さん。面白いからちょっと脱線して詳しく聞きましょう。そんな大金、どうやって返したんですか」
「借りたのがたしか11月ぐらいで、お年玉で返しました。はじめからそういう約束で、借りるときに両親に証人になってくれ、とか言ってました」
「お姉さん、最高です。返済計画を立てさせ、保証人もみつくろうなんて」「でも、たった2カ月で1割も多く取るなんて、やりすぎな気がする」
 ビャッコさんもそう思うよね? だよね? 鬼だよね?
「ふむ。1割、ですか」
 カイシュウ先生は立ち上がると、黒板に数字を書きだした。

2000
2200
2420
2662
2928
3221
3543
3897
4287
4716
5188
5707
6278
6906
7597
8357
9193
10112
11123

「2000円に利子が2カ月で10%つくと、2200円。2行目までがサッチョウさんのケースです。3行目はさらに2カ月借りっぱなしにした場合。ここから利子が2階建てになります。最初に借りた2000円に、2回分で400円の利子。そこに『前回の利子につく利子』が加わる。前回の利子は200円なので、その10%は20円ですね。ということで、利子は全部で420円です」
 細かいというか、ずいぶんセコイ話だな。
「4行目以降はずっと借りっぱなしにした場合の返済額です。1年後で元利合計3543円なり、ですね。さらに3年間、借りっぱなしにすると、返済額は1万円を超えます」
 あれ。おかしいな。もとのお金にかかる利子は1年で1200円、3年で3600円のはずだ。借りたお金2000円と合わせても5600円なのに、その2倍近い。
「利子が利子を生む、複利の魔力です。かのアインシュタインが人類史上最大の発見と言った、なんて噂もあります。高利の借金があっという間に雪だるま式に膨ふくらむカラクリです。ちなみに、その先はこうなりますね」

11123
12235
13459
14805
16286
17915
19707
21678
23846
26231
28854
31739
34913
38404
42244
46468
51115
56227
61850
68035
74839
82323
90520
99611
109572
120529
132582
145840
160424

 ビャッコさんが「すごい……。暗算、速い」とつぶやいた。たしかにすごい。けど、ほんとに計算合ってるのかな。目が合うとカイシュウ先生がにやりと笑い、シャツの胸ポケットから電卓を取り出した。一応、もとはそろばんクラブなのに……。
「1・1に、掛けるを2回。で2000、と。さあ、イコールを押していってください。四捨五入の誤差はお目こぼしを」
 電卓のキーを押すと、次々に黒板に書かれた数字が出てきた。カイシュウ先生が満面の笑みで胸を張った。僕らもつられてニヤニヤしてしまった。
「寄り道しすぎましたね。4つ目の方法は『かりる』でした。次は?」
「もう一つは、銀行にお金を預けて利息をもらう、だと思います」
「グッド! お金持ちらしい答えがさらっと出ました。銀行預金のほかに、会社の株式や土地を買って値上がりしたら売る、という手もある」
「あの、株式って、何ですか」
「庶民代表らしい素朴な質問です。お金持ち代表、わかりますか?」
「……会社を持っている、とかそういう感じ」
「さすが。株式は会社の所有権を小口に分けたものです。それを売り買いするのが株式市場。この辺りはいつかまとめて話します。預金とか株式とかお金を誰かに預けて増やしてもらうことを『運用』と言います。お金がお金を生む不思議な仕組みです。和語を当てると、『ふやす』。漢字で書けば『繁殖』の下の字で殖やす。さて、最後の一つは?」

かせぐ
ぬすむ
もらう
かりる
ふやす
???

「……ひろう、とか?」
「これはお金持ちらしからぬご返答。ネコババは日本では犯罪ですよ。まあ、それは『もらう』か『ぬすむ』の変化球ですかね。サッチョウさん、ほかに思いつきますか」
「えー、財宝をみつける、とか」
「おー、ロマンチックですね。しかし、それは『かせぐ』に入りそうです」
 難しいな、この問題。答えあぐねる僕らをカイシュウ先生が笑顔で見ている。
「これはこのクラブで扱う最大の難問です。今日、ここでは答えは言いません」
 もったいぶるなあ。さっさと教えてくれればいいのに。
「自分で考えることが大事、ってことですか」
「その通り。ということで難問はひとまず脇において次の問題に移ります」

 「かせぐ」と「ぬすむ」の違いは何か

「サッチョウさん、お父さんは『かせぐ』人ですか、『ぬすむ』人ですか」
 すごい質問だな、と思いながら、僕が「父は消防士です」と答えると、カイシュウ先生が興味深そうに僕の顔をじっと見た。落ち着かない気持ちになりかけた頃、カイシュウ先生は黒板に向かった。今の変な間は何だったんだろう。

 かせぐ  消防士

 ぬすむ  犯罪

「消防士は文句なしで『かせぐ』でしょう。サッチョウさん、お父さんの仕事を誇らしく思っているでしょう」
 改まって言われると、なんか照れるけど。
「はい。尊敬してます」
 カイシュウ先生がまた妙に優しい目で僕を見た。思わず目をそらしたら、ビャッコさんも僕をじっと見ていた。それは、ドキッとするほど真剣なまなざしだった。
「うん、素晴らしいですね。我が子に尊敬される仕事で労働の対価を得る。お父さんはカネのためにやってるんじゃないと言うかもしれませんけど、立派に『かせぐ』という言葉に値します。で、こちらの端には犯罪、『ぬすむ』がある。問題は」
 カイシュウ先生が黒板の空白のスペースに大きな手を「バン!」と叩きつけた。
「このすき間です。世の中にはいろんな職業、いろんな会社、いろんな人がいる。右と左、『かせぐ』と『ぬすむ』を分ける境界線は、どこにあるのか」
 カイシュウ先生が黙り込んだ。自分で考えてみろってことか。
 しばらくしてビャッコさんが手をあげた。カイシュウ先生が目で発言を促す。
「その仕事が世の中の役に立つかどうか、で線引きすればいいんじゃないでしょうか」
「あ、それ、いいかも」
「ほほう。お二人の意見が一致しましたね」
 カイシュウ先生は腕時計を見て、黒板を一度全部消した。
「では宿題を出して終わりにしましょう」

 世の中の役に立つ・立たないは、どう決めるのか

「次回は具体的な職業や仕事について、役に立つ、立たないという物差しで考えてみましょう。それぞれ3つ、具体例を考えてきてください」
 チャイムが鳴った。最後までそれを聞いてから、カイシュウ先生は、「では来週」と軽やかに教室から出ていった。ビャッコさんは、目が合うと小首をかしげて笑い、黒板の1行を消してから出口に向かった。

3時間目 役に立つ仕事 立たない仕事

 日曜にバスケ部の練習試合があったこともあって、この週末はクラブの宿題のことはすっぽり頭から抜け落ちていた。教室に着くまでに考えなきゃ。
 うん、まずは先生、だな。一応、サンプルが目の前にいるし、これは世の中の役に立つってことにしよう。役に立たない例には昆虫学者を入れよう。最近、『ファーブル昆虫記』を読んで、虫の観察ばかりしてどうやって生活してるのか不思議だったんだよな。そもそも、虫のことをひたすら調べるって、役に立たないっぽいし。
 ファーブルのことを考えていたら、3つ目を思いつく前に教室に着いてしまった。
「今日は世の中の役に立つ仕事、立たない仕事を具体的に考えようという話でした」
 ビャッコさんがノートを取り出した。張り切ってるなあ。
「では、サッチョウさん、さっそく例を3つ挙げてください」
 まだ2つしか考えてないな。ここはアドリブで乗り切ろう。
「1つ目は先生です」
「おっと、そう来ましたか。それは役に立たない例ですね」
「いえ。役に立つ、です。子どもに勉強を教えるのは大事な仕事です」
「末席をけがすものとして光栄です。では、次、どうぞ」
「昆虫学者。これは役に立たないほうで」
「渋いチョイスな上に、ずいぶん辛口ですね」
「『ファーブル昆虫記』は面白い本だけど、お金もうけとは関係なさそうだし」
「ふむ。ゼニにならん、と」
「なんというか、世の中の外にいて、あってもなくても誰も困らない仕事というか」
「昆虫学者不要論ですか。何かうらみでもあるんですか。その調子では、浮世離れした学者や芸術家は一網打尽でアウトですね」
 あれ? なんだか変だ。そんなつもりじゃなかったんだけどな。
「ビャッコさん、どう思いますか」
 ビャッコさんは少し考えて、「昆虫学者や画家は、いなくてもすむかもしれないけど、新しい発見や素敵な絵で世界を豊かにしてくれます。お金もうけに直結しなくても役に立つ仕事だと思います」と言った。
 おっしゃる通り。急ごしらえで答えると、ろくなことはないな。
「サッチョウさん、どう思いますか」
「昆虫学者のみなさんに謝ります」
「ちょっとフォローすると、生前のファーブルは本が売れず、とても貧しくて学者仲間から経済的な援助を受けていたようです。ゴッホの絵も生きてるうちはまったく売れなかった。でも、自分のやりたいことをやらずにいられなかった。サッチョウさんが言う通り、世の中の外、お金の外で生きていたとも言えます。では、サッチョウさん、最後の一つをどうぞ」
「パン屋さん。これは、役に立つ、です」
 アドリブのでっち上げとはいえ、我ながらつまらない答えだな。
「うん、いいですね。材料を仕入れてパンを焼いて売る。非常にオーソドックスです。こういう例もないと議論に穴が空いてしまう」
 あれ。意外と好評だな。ここでカイシュウ先生が板書した。

 先生
 昆虫学者
 パン屋

「今のところ全部、役に立つ、ですね。次はビャッコさん、どーんとお願いします」
「3つ全部、役に立たない仕事でもいいですか」
「助かります。バランスがとれて」
 ビャッコさんは一瞬、間をとり、深く息を吸ってから、「わたしが役に立たないと思う3つの仕事は、高利貸しとパチンコ屋と地主です」と一気に言った。
 教室に沈黙が降りた。
 僕はビャッコさんの顔を横目でちらっと見て、すぐ目をそらした。カイシュウ先生はチョークを手にしたまま、目を見開いてビャッコさんを見ている。ビャッコさんはしっかりその視線を受け止めている。
 カイシュウ先生がようやく「これは……驚きましたね」と口を開いた。
「中学生の口からその3つが出てくるとは。少々、面食らいました」
 カイシュウ先生とは違う意味で、僕も驚いていた。なぜなら僕は、この町の人間なら誰もが知っている、でもたぶんカイシュウ先生が知らないことを知っているからだ。
 その3つはすべて、ビャッコさんのウチ、福島家の家業なのだった。
 教室の静けさにかぶさるように、校庭からサッカークラブのかけ声が届く。今日は春らしい青空が広がる、絶好のサッカー日和だ。重い沈黙が続き、僕は今、外で気楽にサッカーをやっているなら、どんなにいいだろう、と思った。カイシュウ先生は天井を見上げ、ビャッコさんは机の上で指を組み、そこに視線を落としていた。
 福島家が経営するパチンコ屋の「フクヤ」は県内にいくつかチェーン店がある。ローンのほうは僕にはよくわからないが、一度、姉貴が福島家のことを「いいなあ。子ども部屋も広いだろうなあ」と言ったら、お母さんが「あそこはコーリガシで大きくなったのよ」と冷たく切り捨てたことがあった。「氷菓子ってアイス?」と聞いて姉貴にバカにされたのでよく覚えている。
 そして福島家は町一番の大地主でもある。「福島さんは自分の土地だけを通って駅から自宅まで帰れる」という伝説があるくらいだ。真偽は不明だが、町の大きな家はたいてい福島か歌川という表札を付けている。歌川さんは福島家の親戚らしい。
 カイシュウ先生がようやく金かな縛しばりからとけて、黒板に3行書き足した。

 高利貸し
 パチンコ屋
 地主

「錚々たる顔ぶれですね。どうしてこの3つを選んだのですか」
「家族の仕事なんです。亡くなった祖父の代からやっています」
「ファミリービジネスというわけですね。お祖父さんが創業者ですか」
「パチンコとローンはそうです。土地は先祖代々のものを祖母が管理しています」
「で、パチンコとローンがお父さんの担当、といったところですか」
 ビャッコさんがコクリとうなずいた。
「そして、その3つとも、世の中の役に立たない、と」
 今度はさっきより強くうなずいた。
「どうしてそう思うのですか」
「誰も幸せにならない仕事だからです」
 それは今まで聞いたこともない、硬く、冷たい声だった。
「お金に困って返せないほどの借金をしたり、それで家族がバラバラになったり、大事なお金をパチンコにつぎ込んだり、駐車場に置き去りにされた赤ちゃんが死んじゃうことだって……」
「OK!」
 カイシュウ先生がさえぎり、ビャッコさんに近づいて大きな右手を肩においた。
「十分、わかりました。ありがとう」
 硬い色のビャッコさんの目に、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「なかなかヘビーですね。サッチョウさん、ご意見をどうぞ」
 いや、ここで振るかなあ。
 正直、福島家のことはあまり考えたことがない。パチンコもローンも僕には無縁だ。あ、ウチのマンションの大家は福島家かもしれないな。ふすまに空けた穴や壁の落書きを思い出した。借り物なのに、すいません。
 あまり関係ないです、と言うわけにもいかないので、僕は言葉を選んで答えた。
「パチンコやローンはよくわからないけど、地主や大家さんはいないと困るような」
「ほほう。どうしてですか」
「自分の家がない人は、誰かが貸してくれないと住むところがなくなっちゃうから」
「いいポイントです。でも、ビャッコさんは納得しないでしょうね、今の意見には」
 少しの間があり、ビャッコさんがうなずいた。
「恐らくビャッコさんはこう考えている。生まれつき土地や家をたくさん持っているだけでお金がもうかるのは、なんだかずるい。違いますか」
 また少し間をおいて、今度はビャッコさんが小さな声で「はい」と答えた。
 そんなもんかな。世の中、そういうものなんだから、しょうがない気がするけど。
「現実には相続した財産を維持するのはそれなりに大変です。座して食らえば山も空し、なんて言葉もあります。いずれにせよ、今、ワタクシに言えるのは、ビャッコさんの気持ちは理解できる、というところまでです。その正否の判断は控えます」
 うーん。なんかすっきりしないな。
「何か言いたげですね、サッチョウさん」
「なんというか……逃げてる気がする」
 カイシュウ先生が「鋭いですね。容赦ない」と嬉しそうに笑った。
「率直なご意見、ありがとうございます。そうですね。逃げます、ここは。ただし、一時退却です。夏がくる頃には、再チャレンジの準備が整うでしょう。それまでお待ちいただけますか」
 ビャッコさんがうなずいた。もう笑顔だ。
「逃げるついでに、高利貸しとパチンコ屋についても今日はここまでとします。こちらは夏とはいわず、順次、取り上げます。では、最後にワタクシも職業を3つ挙げて、今日のしめくくりとしましょう」
 言い終えるや、カイシュウ先生は黒板に向かって一気にこう書きあげた。

 サラリーマン
 銀行家
 売春婦

 おいおい、いいのか、これ。カイシュウ先生は「おっと。これはいけません。昨今は何ごともジェンダーフリーですからね」と言いながら「売春婦」の後ろにさっと「売春夫」と書き足した。いや、そこじゃないだろう。
「さて、お二人、売春ってわかりますよね」
 ビャッコさんが真面目な顔でうなずいた。僕もできるだけクソ真面目な顔でうなずいた。
「偽りの愛、インスタントの愛を売るお仕事です。人類最古の職業とも言われますから、これは外せません。次回は大型連休明けですね。宿題は、これらの仕事についてひと通り考えること。世の中の役に立つ、立たないという視点で、です。では、また」
 カイシュウ先生が姿を消し、ビャッコさんが「今日のはしっかり消そうか」とほほ笑んだ。黒板は、この世にパン屋もバイシュンフも先生も一人もいないみたいに綺麗になった。黒板消しを置くと、ビャッコさんはすっと僕に手を差し出した。
「サッチョウさん、今日はありがと」
 僕はしばらくポカンとしてから、あ、握手か、と気がついた。僕たちはわりと強く、でもそんなにきつくなく、握手した。
 ビャッコさんが「次は再来週だね」と出ていったあと、僕は手を閉じたり開いたりして、がらんとした教室を見回した。次回のクラブを待ちきれない気持ちになっていた。

「おカネの教室」、4月の章、いかがでしたでしょうか。
物語はここから、以下の目次のように様々なテーマへ話題を広げながら、急展開していきます。気になる方は上のリンクから「5月」もご覧になってください。
「お金を手に入れる6つ目の方法」とは?
もう1つの隠された謎とは?
サッチョウさんの淡く無謀な(?)恋の行方は?
ぜひ、「そろばん勘定クラブ」の一員になって、本編をお楽しみください!

執筆の経緯や狙いにご興味ある方はこちらの著者インタビュー、創作秘話や出版体験記はこちらから

===========
ツイッターやってます。フォローはこちらから



この記事が参加している募集

推薦図書

無料投稿へのサポートは右から左に「国境なき医師団」に寄付いたします。著者本人への一番のサポートは「スキ」と「拡散」でございます。著書を読んでいただけたら、もっと嬉しゅうございます。