お子様ランチ

絶望と希望の「最高のひと皿」

本稿は集英社の「小説すばる」2018年12月号に掲載された「最高のひと皿」です。転載をご快諾くださった編集部のご厚意に感謝します。
1本目は「すばる」に掲載されたもの、2本目はお蔵入りにした別稿です。
タイトルのイラストは次女が描いてくれました。
では、絶望と希望の「最高のひと皿」、ご賞味ください(笑)

最高のひと皿・絶望編 お子様ランチ

「好きなもの頼め」。父の言葉に9歳の私は耳を疑った。時は1980年代初め。我が家は貧しく、外食はたまに家族で喫茶店に行くくらいがせいぜいだった。それが突然、父が私だけを連れてレストランに入り、何を食べても良いというのだ。私は憧れの「お子様ランチ」を選び、父はステーキを注文した。
何かおかしい。父は、私を家から連れ出すときも、料理を待つ間も、一度も私と目を合わせなかった。不機嫌ではないが、心ここにあらずといった様子の父を見ているうち、ある直観が幼い私をとらえた。
「あ、俺は、この後、どこかに捨てられる。これは最後の御馳走なんだ」。

(もとの掲載号です。イラスト、かわいい)

唐突な予感には、伏線があった。父は、喫茶店に私を連れ出して姿を消し、「お前はもう捨てた」と電話してきて、号泣する私をケラケラ笑いながら迎えにきたことが何度かあった。車で出かけた見知らぬ町で、缶ジュース一本を渡されて数時間放置されたこともあった。前者は悪戯で、後者はギャンブルか女遊びか、とにかく子供が急に邪魔になったのだろう。

しばらくして、ハンバーグや旗の立ったケチャップライスを盛りつけた特製お子様ランチが出てきた。私はひと時、不安を忘れて夢の一皿に取りかかった。父は二切れほどステーキに口をつけただけで、ナイフとフォークを置き、煙草をふかしはじめた。2階の窓際の席から大通りを見下ろす横顔は、初めて会った他人のようだった。どこか捨て鉢な、子供の手が届かない世界にいる男の顔だった。

やっぱり俺は捨てられるんだ。理由は分からなかったが、直観は確信に変わった。デザートのプリンの味もわからなくなった。ショックが大きすぎて涙も出ない。頭の中で「車で走る間、帰り道を覚えておこう」とヘンゼルとグレーテルのような戦略を描いた。

支払いを済ませ、父と私は何事もなく家に帰った。私の予感は杞憂に終わった。
このすぐ後、父が経営する零細会社は不渡りを出した。謎の外食のころにはすでに万策尽きていて、ヤケクソの気まぐれで、三兄弟の末っ子の私にうまいものを食わせてやろうと思ったのだろうか。そして、夜逃げや一家離散が脳裏をよぎり、その思いが私に伝播したのだろうか。味はほとんど思いだせないが、あのお子様ランチほど最高に忘れられない一皿はない。

最高のひと皿・希望編 チキン・ティカ・マサラ

東京から12時間のフライトの後、ロンドン中心部の宿まで夕方の渋滞にはまり、荷物を置いて最寄り駅まで行くと、地下鉄は運休していた。初日に遭遇した人生初の鉄道ストライキは、お粗末な公共サービスに悩まされるロンドン暮らしを暗示する出来事だった。

何とかしてセントポール大聖堂にほど近いオフィスにたどり着いた時には、私は疲れ切っていた。
前任者の送別会に合流して、現地スタッフや東京からの派遣組に挨拶して回った。新聞社勤めの私は、2016年春から2年、欧州・中東・アフリカ地域担当のデスクをロンドンで務めることになっていた。
前任者の希望で、送別会の会場は近所のインド料理店だった。「高井さん、ロンドンに住むの初めてですか! じゃ、一番のイギリス料理を食べてもらわないと!」。現地スタッフの助手のサムさんが、そう言って頼んでくれたのが、チキン・ティカ・マサラだった。

(Wikipedia=英語版より拝借。リンクはこちら

焼いた鶏肉をトマトやヨーグルト、香辛料のマサラなどのソースで煮込んだこのカレーは、辛さは抑え目ながら、スパイスが口と鼻をほどよく刺激する。焼き目でうまみをとじこめた鶏肉が口の中でほぐれる。
「おいしいでしょ? これも一緒にどうぞ」
もらったナンをちぎり、カレーに浸して食べてみて、驚いた。フルーツの香りと甘みがあるのだ。サムさんが「ペシャワリナンです。ココナツなんかが練りこんであるんですよ」と教えてくれた。
カレーの辛みとココナツの甘さの競演が、甘党の私には絶妙の味わいだった。

「確かにうまい。でも、これ、インド料理だよね」と笑いながら突っ込むと、サムさんは「違いますよ! イギリス料理ですよ!」と譲らない。
いやいや、ここ、インド料理屋だし、と思ったが、その場は「ふーん」と引き下がった。時差ぼけの頭のなかでは、「旧植民地のインドは『自国』ってことにしちゃうのか。さすが大英帝国様」といった考えが回っていた。

後日調べて、本当にイギリス発祥と知った。パブの定番メニューでもあり、家庭でもよく作るらしい。
「純ドメ」な私にとっても、家族にとっても、ロンドン赴任は初めての海外生活の機会だった。飯がまずいと定評のあるイギリス(実際はそうでもない)で、初日からこんな美味いものにありつけるとは。
まろやかなカレーの一皿が、新天地での刺激に満ちた日々への期待を膨らませてくれた。

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