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霧が晴れたらチェロを弾こう

今月末の白内障の手術日まであと数日となりました。え、白内障? 緑内障じゃなかったの? と怪訝に思うあなたは、もう、すっかり僕のnoteのファン? そうなのです、緑内障こそは40代からの僕の宿痾(しゅくあ)に違いないのですが、最近になって僕の左目は、その緑内障をベースに白内障のトッピングとの二層になっているという意外な事実が判明したのでした。

吉祥寺駅そばの掛かりつけ医からそれを知らされたときは、当惑した……というよりは、むしろほっとした、というのが正直なところ。なぜなら、ずっと前から見えづらい右目はともかく、この1年、頼みの綱の左目の視力の低下が著しく、何かと不便な場面が増えています。加えて、日中のまぶしさは如何ともし難く。その主因が白内障の進行によるものとなれば、こちらは緑内障の処置なしな状況とはうって変わって、「処置あり」なわけです。すなわち、その「処置」こそが今月末に予定している眼内レンズの埋入に他なりません。

手術自体は所用時間10分程度の比較的簡単なもの。しかも、入院も不要。とはいえ、吉祥寺のドクターからは、

「手術は専門の先生に紹介状を書くからそちらで受けてね」

と、いわば丸投げを宣告された恰好でして、実際の手術は武蔵境駅そばのドクターの手に委ねられることに。どっちみち、こちらはまな板の上の鯉です。手術日当日まで僕にできるのは、せいぜいコロナに罹らないように気をつけることくらいしかありません。

さて、直近の診断で、武蔵境の先生からは、

「もともと緑内障があるからどのくらい視力が恢復するか保証の限りではないけど、ひとまず35センチ先のパソコンの画面が良く見えるようには(焦点を)調整するから」

とは言っていただいています。これは、しかし、グッドニュースでもあり、バッドニュースでもあるな、と。

まず「バッドニュース」はと言えば、僕のケースは、巷間よく聞く「白内障の手術をしたからメガネいらず」とはどうやら少し違うらしいこと。ドクターによれば、「手術をしない右目とのバランスがなにより大事」とのことでした。すなわち、遠くを見るには、依然としてメガネが必要ということでして、しかも、この2、3年で買いだめたメガネ全部の度数を調整し直す必要もいずれ出てきましょう。

では、「グッドニュース」の方はと言えば、パソコンやスマホの画面を喰い入るように見ずとも仕事やメールがサクサクいく(かもしれない)ことはもとより、いま一番の楽しみは、半ば諦めかけていた楽譜を見ながら楽器が弾けるかも、というものです。

見えないことの困難や不便は、目を悪くしてこそ初めて分かるという面が多々ありまして。楽器に向かおうにも楽譜が見えないもどかしさとて、これに同じです。

ただ、では楽譜がちゃんと見えていた頃は日々楽器に馴れ親しんでいたのかといえば、それはまた別の話。実際、昔さらった曲をいまも弾けるかと思いつつ居間のピアノに向かってみれば、細かい音符一つひとつが読めないことに愕然としたのは、実はつい最近のことなのでした。

ただ、眼内レンズ装着のあかつきには、ぜひとも弾きたい楽器が——ピアノとは別に——ひとつありまして。それは、もう何年も前から専用ケースに入ったままで、ウォークインクローゼット内の壁に立てかけてあるチェロです。

そもそも鍵盤を叩けば音は鳴るピアノと違って、チェロではドレミの音階を順番に弾くことさえできません。あ、いや、買った十年ほど前にはそれでも札幌交響楽団所属のチェリストの先生に10回……には満たないですが、少なくとも5、6回はレッスンを受けましたので、弓の当て方や肘の上げ方くらいはいまも覚えています。ただ、惜しむらくは「サッキョーのチェリスト」の先生が、優しい女性の先生であれば騙しだまし1年は続いていたやも知れないものを、クールな男性の先生だったものですから、気がつけばレッスンは自然消滅していました(もっとも、こちらも可愛い女性の生徒だったなら、先生からのリマインドの1回や2回あったことと思われ、なんとも悔やまれます)。

いま思えば、ドイツ製の楽器本体、馬毛を張った弓、それに同じくドイツ製の専用ケースを含めて片手×十万円は下らなかったシロモノです。

買った当時、僕は勤務先大学の法学部で学部長をしていたのですが、在任中にお亡くなりになった民法のイケダ先生のお葬式で弔辞を読ませていただく機会がありました。生前の先生との思い出話のあれこれに触れたのち、締めの言葉にどうにも窮したものですから、

「先生が大学に遺された、弁護士や司法書士資格にチャレンジする学生のための法職講座と、生前、ヴァイオリンをこよなく愛された先生ご自身も発起人かつ主要メンバーのお一人だった室内楽サークルのことは、どうかこの僕にお任せください」

とまで踏み込んだのが運の尽きでした。啜り泣く声と大きな拍手に包まれて悦に入っていたのも束の間、ほどなくして件の室内楽のサークル員に連行れた僕は、(有名弦楽器店の)シャコンヌの札幌特売会場にて、例の、楽器・弓・ケース一式を購入するハメに……あ、いや僥倖に与ったのでした。

あれから月日が流れ、

「G線上のアリアならチェロのパートは簡単だから、先生、早く演奏会デビューしようね」

という団員のタナカさんやツクダさんとの口約束は未だ果たせぬままです。が、左目をモヤらせるこの不快な霧がパッと晴れたあかつきには、僕は僕のチェロをケースから取り出して、iPhoneのチェロ専用チューナーアプリを鳴らして、まずは調弦から始めようと思います。

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