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シニア割られるのは嬉しくはあるけれど

スタジオジブリの「君たちはどう生きるか」を観てきた。入場料はシニア割で1300円。一般料金の2000円からすると35%引きということになる。これは、ステータスを得て間もないJRの長距離料金の3割引き制度(「ジパング倶楽部」)と似たり寄ったりの割引率。いずれも子ども料金のように半額とはいかないが、さりとて1割、2割では魅力や訴求力に欠ける、ということか。

でも、そもそもなぜシニアにはシニア料金が適用されるのだろう、と考えた。

誰でも真っ先に思いつくのは、シニアは概して経済弱者である、ということ。さんざん政党助成金や裏金を私的にため込んだ森や二階は別として、60代も後半ともなれば、誰しも収入曲線はピークアウトして、そろそろ人生の出口戦略に思いを巡らすこととなる。ゆえに、高齢者が身入りに応じて料金のなにがしかを割り引いてもらえることには正当性があるように思えるし、理屈抜きで嬉しい。

もっとも、可処分所得という点では、むしろ、「子だくさん割」や「住宅ローン絶賛返済中割」のような、若い世代の応援こそ妥当なようにも思えなくもないが。

次に、さまざまなビジネスシーンで高齢者は空席埋め合わせ要員としての役割を期待されているのだな、とは自分も当事者になって改めて痛感しているところ。同じ電車を走らせたり、飛行機を飛ばしたりするにも、半額の子どもでも、3割引きの老人でも、客を詰め込めるだけ詰め込んだ方がいくらかでも儲けの足しになるというもの。真っ当な勤め人とは無縁の平日の昼間の映画館も、シニア割有資格者なら一定程度集客が見込めるのかも知れない。

だが、僕に本文を書かせる理由はまた別にある。それは、本来、シニア割のあるべき姿は「3割引き」や「35%引き」といった、割安感、格安感ばかりのアプローチではなくて、例えば、「お気持ち割」……いや、より正確には「お気持ち払」といった、もっと能動的な、シニアの社会参加のかたちの議論に踏み込むべきではないか、ということ。

お気持ち払とは、文字通り「お代は貴殿のお気持ちで……」ということであり、その心は、シニアたるもの、それぞれの公共心と懐具合を勘案した、いわば自己決定に根差したフレックス料金制でいいのではないか、ということだ。

お気持ち払が社会に少しずつ浸透して来ると、一方で、2ヶ月に1回の年金の受け取りだけが生命線のあなたは、それでも月に一度の寄席通いがなによりも楽しみで、毎回、一般料金の半額程度の「お気持ち払」で済ませるかもしれないが、他方で、同じあなたが、近所に所在する美術館を地域社会にとってなくてはならない大切な施設と考え、入場料500円のところ、いつも1千円の「お気持ち払」をシニア増(?)でなした上で、3回に1回は募金箱にもう1千円の寄付をなすかもしれない。

お気持ち払が成立する社会は、年配者に寛容であるとともに、年配者とは社会的な地位や経済的な成功度合いに応じた、「応分の負担」を果たすべき存在であることに関心を払う社会であるということ。もちろん、ほぼほぼフリーライドの「お気持ち(まったくなし)払」を決め込む人々の出現もあり得ることとは思うものの、そんなことはあらかじめ織り込んで余りあるような、文字通り成熟したシニアの台頭が逆釣鐘型年齢構成社会の理想の姿ではないか。

そんな机上の空論が上手くいくもんか、という向きもおいでかとは思う。実際、例えば、長く(50年近く)「お気持ち払」(推奨料金制)*でやってきたニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)が、2018年、一部の例外を除いてこれを廃止し、定額料金制度に切り替えたのだという。

※METは2018年3月、それまでのPay as you wish(料金はお気持ち払いで)制を改めて、固定料金制度に変更した。

「美術手帖」(2018/1/19)によれば、変更前、大人25ドル、65歳以上17ドル、学生12ドルなどと「推奨入場料」が示されていたにもかかわらず、推奨料金を満額で支払う来場者は2004年には63%であったものが、料金制度改定の直前では17%にまで落ち込んでいた、という。結果、一人当たりの平均入場料は9ドルとなっており、財政難の深刻な一因となっていた、というのだ。

ほーらみろ、お気持ち払の末路は「コモンズの悲劇」ではないか、という心配はよーく分かる(でなけりゃ、持論に不利に働きかねないMETの事例なんぞ引用しない)。

ただ、シニア割という魅惑的なステータスを手にした僕は、しかも、3割引きにまだまだ慣れないいまだからこそ自らを鼓舞するのだ、「社会的に7掛けの存在に甘んじてはいけない」との矜持は大事だぞ、と。

なるほど市場経済からは早晩フェードアウトする立場。映画館やJRのシニア割料金は、せっかくだからじゃんじゃん利用させていただくとして、キャリア形成や子育てになにかと忙しい,あるいは、子どもの教育費や家のローン返済になにかと入り用の多い若い人たちの代わりに、地域社会や市民社会の成員としての役割の自覚と実践とに、想像力、アイデアを巡らそう。

アメリカの「鉄鋼王」、アンドリュー・カーネギーは自著『富の福音』(1889年)のなかで書いた。

「有り余る富の処分の仕方には3通りある。死してバカ息子・バカ娘に財産を遺すか、死して社会のために遺贈をなすか、生きているうちに管理者として富を公共目的に役立てるか」(以上、樽見超訳)

もちろん、カーネギーが3つ目を推奨したのは言うまでもない。

あ、息子たちよ、大丈夫。父はあらかじめ1番の選択肢から排除されるのだから。


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