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僕が看護師になった理由

僕は現役の看護師です。
病棟で勤務しています。

日々、忙しくしていますが仕事はそれなりにやりがいもあり充実感があります。


みなさんは“看護師”と聞くとどんな仕事を思い浮かべますか。



僕は、昨年までは消化器外科の患者さんと関わる機会の多い病棟で働いていました。
食欲不振で入院してくる患者さん、胃腸炎の患者さん、虫垂炎の患者さん、腸閉塞の患者さん、癌の患者さん


いろんな患者さんがいました。
たくさんの患者さんと今日までに関わってきました。
患者さんだけではありません。
治療を受ける患者さんのご家族ともたくさん関わってきました。


僕は“やさしい看護師”になりたい。




それが僕の大事な看護観の軸であり、目標でもあります。



僕はこれまで関わってきた人たちにとって“やさしい看護師”だったのだろうかと
自分の行ってきたことに対して自問自答してしまうことがあります。


看護学生の頃から“看護に答えはない”という言葉をよく聞いた気がします。
僕は答えのない問題といつまでもいつまでも向き合い続けないといけないのだろうかと


そんなふうに考えてしまったことがありました。





そんな僕が看護師になろうと思ったきっかけは幼少期の体験にありました。

僕は小さい頃から身体が弱く、病気がちであまり小学校に通えていませんでした。
僕は重度の小児喘息の患者でした。

昼夜問わず、発作は起きていましたが
僕の場合は夜間に大きな発作が起きることが多かったです。

毎日、寝る頃になると喘息の発作が出て苦しくて眠れなくて
朝方までディズニーやトムとジェリーのビデオを何回も何回も繰り返しみて
明け方になると発作がおさまってようやく眠れる。

僕に付き添っていつも寝不足の母。
隣に座ってずっと背中をさすってくれながら
気づいたら眠っている母をみて、少しでも母に寝てもらいたくて
ゼェゼェいいながらも呼吸を浅くして、極力咳を我慢しながら夜を過ごしていたように記憶しています。


そして僕は昼過ぎに起きて活動を開始する。

そんな生活を送っていました。

学校に行けたとしても途中で発作がでて、早退することも多々ありました。

運動をすると喘息の発作が出てしまうので、運動会やマラソン大会も欠席しがちでした。

楽しみで仕方がなかった遠足などの学校行事も喘息の発作のせいで休まざるを得ないことも多かったです。


そんな病気がちだった幼少期の僕は
しょっちゅう病院にかかっていました。

だけど、当時の僕はこんな日常をそんなに嫌だとは思っていませんでした。

確かに喘息の発作は苦しくて辛かった記憶はあります。
だけど僕は、その病気の身体でしか生きたことがなかったし
僕にとってその状態はごくごく普通のことでした。


それに病気の僕には健康な人にはない特権がありました。




“頻繁に病院に行けること”




それが僕にとっての特権でした。


僕は変わった子どもで、病院が大好きでした。


もっと厳密に言うと、病院で働いている人たちが好きでした。

近所の病院の看護師さんや先生、受付のお姉さん、薬剤師さん
とても素敵な人たちばかりでした。


病院に行けば、大好きな人たちに会える。


だけど、全員がいい人だったわけではありません。
入院したときに担当になった看護師さんがとても意地悪だったことを今でも根に持ってたりもします。笑


だけど、嫌な思いをした体験はほんのひと時だけで
総じて病院ではいい思い出がたくさんあります。


僕は、小学校高学年になったころから喘息の症状は少しずつ改善していき
中学生になる頃には、日常生活に支障がない程度までに症状は寛解していきました。


そんな環境で育った僕は、漠然と看護師という仕事にいいイメージがあり
高校生になったときに看護師を志そうと決めたのでした。



高校3年生の進路選択の際に、僕は両親に看護師になりたいことを伝えました。
そのときの家族の反応は、意外にもいいものではありませんでした。



「あなたには、向いてないからやめときなさい」

そう言われました。


僕はてっきり賛成してくれるものだと思っていました。
いつも僕の意見を尊重してくれるような、そんな両親だったので反対されたことが本当に意外で驚きました。


実際に看護師をしている叔母にも相談しました。
すると叔母からも「看護師はあんたみたいに優しい子に務まる仕事じゃないよ」


と、そんなふうに言われました。



家族・親戚には僕のことを応援してくれる人はいませんでした。


僕はなんとなく納得できなくて当時の担任の先生にも看護師になりたいことを伝えました。
そうすると先生にも「あんたには向いてないと思う。私の妹は看護師なんやけど、あんたみたいに優しい子は潰れるよ。そんな甘い仕事やないで」

とそんなふうに言われました。


家族から反対されたときには、納得できなかったけど
家族以外の人からも同じような理由で反対されたときに僕は漠然と納得できたというか
看護師という仕事は僕にはできない仕事なのだと、なんとなく悟ってしまいました。


いつでも僕のやりたいことをやりたいように応援してくれていた家族が猛反対するのにはそれなりに理由はあるのだと高校生ながら察しました。


僕は担任の先生のその言葉で自分の気持ちを切り替えることができ、看護師の夢を諦めました。


それから僕は地元の大学に進学し、4年間大学生活を謳歌して
そして一般企業に就職しました。

会社員としての生活は僕にとってとても過酷な時間でもありました。

業務量がかなり多く、毎日毎日遅くまで働いていました。
仕事が終わらずに休日出勤も当たり前のように行っていました。


だけど、仕事自体にはそれなりにやりがいがありました。
やりがいがあったからこそ、そんな激務にも耐えて働くことができたけど
でもなんとなく、自分の思い描いていた社会人とは違うと感じる瞬間が多々ありました。


“このままでいいのか”


何度も自問自答する瞬間がありました。
そこで僕は自分自身のキャリアについて深く考えました。


僕はどんな働き方がしたいのか、この仕事をこのままずっと続けたいのか

自分は何になりたいのか、何になりたかったのか。



そう考えたときに僕は、高校時代のことを思い出しました。
高校生のときの僕は“看護師”になりたかった。

大人になった僕はそのことをすっかり忘れていました。


僕は本当に看護師になりたかったのか。
今でも看護師になりたいのか。


漠然と考えてみたけどわからなかった。


だけど、社会人経験を経た僕が感じたのは
優しい僕だからこそできる仕事なんじゃないかと思いました。



高校時代、僕の周囲の人たちは
優しい僕にはできない仕事だと言っていました。


だけど、僕の知っていた素敵な看護師さんたちはみんな優しかった。
僕はそんな人たちみたいな素敵な働き方がしたい。
素直にそう思いました。


社会人3年目の僕は看護師になることを決意して
看護学校を受験し、無事に合格。
そして、会社員をやめました。



退職する際にも、たくさんの人たちに

「看護師の仕事は甘くないよ」

と言われました。



だけど、高校生のときと違ったことは
誰も僕の夢を否定する人はいませんでした。


会社の人たちも、家族も友人も
みんな僕の決断に背中を押してくれました。


そして僕は、看護学校に入学して
実習を経て国家試験に合格。

無事、看護師としてのキャリアを歩みはじめました。



看護師の仕事は僕が思っていた以上に大変な仕事でした。
だけど、思っていた何倍も何十倍も何百倍もやりがいのある素敵な仕事だということがわかりました。




看護師一年目が終わる頃に
僕の中で忘れられない患者さんとのエピソードがあります。


それは、癌の末期の患者さん(Aさん)とのエピソードです。
Aさんは50代の男性、大腸がんの患者さんでした。
ちょうど僕の両親と同じくらいの年齢でした。


Aさんは、入退院を何度も繰り返しながら抗がん剤治療を続けていて
病院歴でいうと僕よりも圧倒的に大先輩でした。


「わからないことがあったら◯◯看護師さんに聞いたら優しく教えてくれるよ」
「〇〇先生は、気難しそうにみえるけど意外と優しい一面もあるんだよ」


などと、Aさんは病棟のスタッフのことにも詳しく僕にいろんなことを教えてくれた方でした。
気さくで朗らかな性格で、誰に対しても優しく親切なAさんのことを僕は一人の人間としてとても慕っていました。

そんなAさんですが、癌の進行が進み
だんだんと体調が思わしくなくなってきて
しだいに身体も動かせない状態になってきました。

癌による痛みを抑えるためにどんどん使用するお薬の量も増えていきました。

強い痛み止めの副作用で、意識が朦朧としたり、幻覚が見えたり幻聴が聞こえるようになったりと
Aさんは少しずつ少しずつ弱っていきました。

そんな状態でもAさんは、スタッフへの気遣い・心遣いはいつでも忘れていなかったように思います。


そして僕が夜勤の担当の日
その日のAさんは、いつも以上に調子が悪く30分おきにナースコールで僕のことを呼んでいました。
Aさんの部屋を訪室すると「何回もごめんね…。痛くてね…。ごめんね」と
か細く弱々しい声でAさんは謝っていました。

僕はその度に、「謝らないでくださいよ!全然、大丈夫ですから気にしないで辛かったら呼んでください」と笑顔でAさんに伝え
Aさんの身体の位置を調整したり、痛み止めの量を調節したり、付き添える時間はAさんのそばにいて身体をさすったりと
できるだけAさんに寄り添いました。


そして、その日の早朝にAさんは


「ひろトくん、今晩は助かったよ。ありがとう。朝、先生がきたらもう眠らせてほしいって伝えてもらってもいいかな」


と僕に笑顔でそう言いました。





「眠らせてほしい」



この言葉が意味することは、麻酔薬などを使い亡くなるまでの残りの時間を眠った状態で過ごしたいというAさんの意思表示でした。
この状態になるともちろん言葉を話したり、自分の意思を誰かに伝えることはできなくなります。



Aさんが自分自身の死を受け入れた瞬間だったのだと思います。



僕はそのとき、どんな顔をすればいいかわかりませんでした。
何を言えばいいのか、なんて言ってあげればいいのか分かりませんでした。

一瞬言葉に詰まりながらも、僕は笑顔を作り直し
「わかりました、先生が来たらお伝えしますね」

とAさんに伝えて僕は部屋をあとにしました。
僕の気持ちはかなり動揺していました。

それがどんな感情だったのかそのときにはよく分かりませんでしたが
だけどわかりやすい言葉で言うなら僕はそのとき、すごくしんどい気持ちでした。


そして主治医が病棟に出勤してきたときに昨晩の状況を伝え、そしてAさんの希望を伝えました。
僕の報告を受けて主治医はすぐにご家族へ連絡をし、Aさんの希望で鎮静(眠った状態になること)をかけていくことを説明する場をセッティングしていました。


そのあと僕は、夜勤の勤務交代の挨拶ためAさんの部屋を訪れました。


いつものAさんなら「今日もありがとう、また次もよろしくね」
と言ってくれていまいた。


僕は当たり前のようにその言葉を期待していました。



だけど今日は違っていました。

「ひろトくん、今までありがとね。これからも仕事をする中でたいへんなことはいっぱいあると思う。だけど、そんなときこそ同期のみんなと手を取り合って頑張るんだよ。そして一人前の看護師さんになってね」



Aさんは僕の手を握って優しく、そう言ってくれました。
まるで最後の挨拶かのように。


僕はAさんの言葉を聞いて、その場で泣いてしまいました。
感情がぐじゃぐじゃになって、ただただ涙と嗚咽が止まらなくなってしまいました。

何かを言葉にしようとしてもうまく声が出せませんでした。


僕はなんで泣いているのか
何が悲しくて泣いているのか、何が辛くて泣いているのか、何が苦しくて泣いているのか

僕の目の前にいるAさんの方が、何倍も何十倍も何百倍も辛くて悲しくて苦しいはずなのに
どうしてAさんは、こんなに優しいのか。


僕はAさんに何も伝えられませんでした。
ただただ泣いて、「こちらこそ、本当にありがとうございました。一人前の看護師に絶対なります」
そう短く伝えて退室しました。


僕は、そのときの自分の行動を深く後悔しました。
今でも後悔しているかもしれません。


あの瞬間、僕は看護師ではありませんでした。
ただただ一人の人間でした。


看護師としてAさんの気持ちに寄り添えず、僕は僕の気持ちが抑えられずにその場で取り乱すように泣いてしまいました。


そしてその数日後にAさんは家族に囲まれて息を引き取りました。
その日、僕は日勤スタッフとして出勤していまいた。

ナースステーションで、Aさんの心電図モニターが停止したときの音を聞いて
僕はその場に立ち尽くしてしまいました。


そして僕はまた泣いてしまいました。

きっと看護師としてではなく、一人の人間として
僕はAさんが亡くなったことが悲しくて泣いていました。



「最後のAさんの処置、僕にやらせてください。お願いします」


僕はその日、Aさんの担当ではありませんでしたが師長さんと先輩に懇願して
亡くなったAさんの身体の処置を担当させてもらいました。


その間も僕は、ずっと泣いていました。


そして霊安室にAさんの身体を搬送して、お線香を上げさせてもらい
葬儀屋さんにAさんの身体を引き渡して、お見送りをしました。


僕はその間ずっと涙が止まらなくて、とても仕事ができる状態じゃありませんでした。
Aさんをお見送りしたあとナースステーションに戻ったときに
Aさんを担当していた主治医のH医師に声をかけられました。


「ひろトくん、本当にありがとう。ひろトくんだったから僕もAさんのことを安心して任せられたよ。Aさんもひろトくんのこと、いつもよく褒めていたよ。いつも一生懸命だって。ひろトくんがこうやって涙が出るのは、一生懸命に看護をしてくれていた証拠だと思うんだよね。一生懸命に患者さんと向き合っていたからこそ、悔しいし悲しいし辛いよな。わかるよ。だから涙がでるんだよ。自分たちの仕事は、患者さんから学ばせてもらう機会がたくさんあるんだよね。残念ながら力を尽くしても、Aさんのように亡くなっていく人たちもたくさんいる。そんな中で、その人の生き方やその人と向き合うご家族と、自分たちは一生懸命に向き合っていくことで自分自身の生き方とも向き合ったりできるんだと思うんだよね。」


こんな泣いてばかりのどうしようもない僕を見て
正直がっかりされるのかと思っていました。

だけどH医師はそんな僕に対して「ありがとう」と言ってくれました。

僕はその言葉に救われました。

なんとなくだけど、僕の看護が間違いではなかったのかなと思えました。


だけど、僕は常々思うんです。
あのときに僕はどんなふうに振舞えればよかったのか
どんな言葉をかけられたらよかったのか

どうすればプロの看護師としてその場にいられたのか。


考えても考えても答えはでません。




看護師として働く中で
ときどき、自分自身の気持ちに迷ってしまうことがあります。
そんなときに僕が思い出すのはAさんの「一人前の看護師さんになってね」という言葉です。



Aさん、僕は一人前の看護師に近づくことはできていますか。





僕はAさんの言葉を思い出して、自分自身を奮い立たせる瞬間があります。






僕はこれまで関わってきた人たちにとって“やさしい看護師”だったのだろうか。




自分自身に問い続けても答えはでないけれども、だけど僕は看護師を志したそのときから変わらず
“やさしい看護師”になりたいと、そう思うのです。

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