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内なる声を育てないで

すべてを知らなければいけないと思っていた。身の回りのすべてのことに触れなければならないと思っていた。だって手を伸ばせば届く距離にあるものに手を伸ばさないこと、それはすなわち逃げであり負けであり甘えであるのだもの。

あらゆるものを吸収し最上も最下も味わって磨かれ尽くした五感は内なる声となって自分自身へも容赦なく評価を下す。頭のてっぺんから爪先までを、目に見えるところから目に見えない心の奥深くまでを舐め回すように攫っていったかと思えば、「お前はダメだ」と嘲笑ってみせた。

傷ついても苦しくても耐えることがすべてであり受け入れることが美しいのだと思った。だから内なる声が発するあらゆる言葉に耳を傾けて信じて言うとおりに行動する以外の選択肢がなかった。己を磨いていけば内なる声もそのうち認めてくれるはずだろうと。

意思の熱量と同じだけ変わっていける能力があればよかった。思いのままコントロールすることができる力とコントロールされ得る心身があればよかった。そうすれば何も問題はなかった。

なりたいと思えばなれる自分。そんなものは持ち合わせていなかったから掲げる理想と現実のだだっ広いギャップは急所と化して、内なる声は的確に執拗に責め続けてくる。己の知っている世界はこんなにも広く、今立っている場所から少しぐらい動いたところで最上にはとても届かない。そんな場所にしかいられない己を恥じ高く掲げた理想へひとっとびで辿り着くことができないならばこの世界に生きる価値すらない。

内なる声は健やかな身体を壊し心を壊す。社会の中の自分という存在が徐々に崩れていき、そうして何かの拍子に過去を振り返ってみて初めて支配されていたことに気が付くのだ。

内なる声に養分を与えてはいけない。五感を磨かず鈍いままにしておけば少なくとも心だけは守れるのだ。何気ない言葉を何気なく発し小さな喜びを喜びと感じ分かち合い与え合える関係で成り立つようなひどくちっぽけでありふれた存在でいるべきなのだ。

笑うたびに痛みを堪えるのはもう嫌だ。言葉の裏にナイフを忍ばせて返り討ちにあうのだって。そうやって自分の大切な世界が少しずつ綻んでいくのをただ見ていることしかできないのも。

失われた部分はきっともう返ってこないのだろう。ずいぶん小さくボロボロになってしまった世界をせめて完全に消してしまうことのないように。

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