見出し画像

曇天の旅路

新しい場所。

どんな場所だろう。

どんな人がいるのだろう。

自分に何ができるだろう。

新しい場所に旅立つとき、多かれ少なかれ誰もが何かしらの期待を抱く。

せっかくの旅立ちが晴れの日でなかったのは残念だが、天気に文句を言っても仕方がない。
垂れ込める分厚い雲、上等だ。
雲を裂いて空を渡り、雨もはねのけ、誰も知らない世界を見てやるのだ。
この目で。
この足で。
必ずたどりついてみせる。

それが淡い期待にすぎないことを、旅立ちの日の全能感の前には自覚することも叶わず。

窓の外はじめじめと暑苦しい雨、熱を含んだ湿った空気が肌にまとわりついて離れない。

意気揚々と未来を夢見た旅路は早々と破れた。

思えば、はじめからうまくいくはずがなかったのだ。

何もかも見通していたかのような、出立の日の曇天。

知っていた。
結局は何も変えられないということを。

本当は知っていたのに。

骨董品屋にて

カビたような匂いの立ちこめる薄暗い部屋は、一見しては店を構えているように見えなかった。

天井や壁のところどころに蜘蛛の巣が張っている。
歩くと悲鳴のような音をたてて床がきしむ。

それでも商品は丁寧に手入れされているようだ。

何に使うのかよくわからない黒塗りの壷はなめらかな光沢を放っている。
他の客どころか店主の気配すらしないのに、並べられた品物には埃一つかぶっていない。

まるで時が止まっているようだ。

薄く引き延ばしたような、水っぽく味のしないシチューのような人生の終わりにここへ来た。

一目会いたかったのだ。

きょろきょろと見渡しながら品々の間を縫う。

「お探しのものはこれかな?」

不意に背後から声をかけられた。

いつからいたのか、どこにいたのか。
なぜ気配を消していたのか。

口にはできない問いが脳裏をかけめぐった。

古びた棚の向こう側、ごちゃごちゃと重なり合う品物の陰に彼はいた。
グレーの帽子を深くかぶり、背中を丸めて眠るように腰掛けている。

棚の上には探し求めていたものがあった。

あの日。
旅立ちのあの日。
共に行こうと携えた羅針盤。

何十年もの人生が奔流のように目の前を流れていった。
薄く引き延ばしたような、味のしない、なんと無意味な人生だったのかと思っていた。

傷一つない羅針盤。
年月は経っているが、新品のように美しく輝いている。

無意味な人生だったと思っていた。

涙がこぼれ落ちる。

「持っていきなされ」

店主の声は静かだった。

「でも、お代を持っていません。この世にいるうちに一目会いたいと思って来ただけですから」

「いんや。これはお前さんのものだろう。だからお前さんが持っているべきものだ」

それに。
と店主は付け加える。

「これを探しにきたということは、本当はまだ諦めていないのだろう?」

店を出ると、雨は止んでいた。
あの日と同じような曇天だった。

ポケットに入れた羅針盤を確かめて歩き出す。

まだ終わらなくていいのだ。
まだ進んでもいいのだ。

どこへ続くかもわからない道を。

果てしない道を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?