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人が消えていく世界の中で、自分の存在をどう捉えたら良いのだろうか?

facebook の中から人がどんどん消えていく。プラットフォームの外見だけが残り、人は姿を消してしまった。

…こういったことが、デジタル世界の中では当たり前のように起きている。

かつてのmixi がまさにそうだったと思うし、グリーやモバゲーのような携帯オンラインゲームも一緒にコミュニケーションを交わせる人たちがいなくなると、その世界は虚しさだけが残る。

そう、まるで80年代の古いアーケードゲーム(業務用ゲーム機のインベーダーゲームとか)が並ぶゲーセンを想ってしまう。

でもそれは考えてみると現実世界でも起こっていて、年を重ねれば重ねるほど同世代の友達や仲間が亡くなり、場合によっては「最後のひとり」を思わせる状況になってしまった人もいると思う。

そんな時、確かに自分はこの世界に生きている。だけど、自分という存在がこの世界で生き続けていることの意味を、人はどう見いだすのだろう。


というのも、

例えばだけれど、インフルエンサーとして活躍していた人がアカウントをすべて削除してしまったら、その人の存在は「何」になるのだろう?

例えばだけれど、ネットビジネスをしている人がメルマガのリストをすべて削除してしまったら、その人の存在は「何」になるのだろう?

これはなんだか、会社をリストラされた直後の「元・会社員」が自分の存在を見失ってしまうような現象に近い気がする。

会社の中の自分にアイデンティティーを見いだしていたように、SNSの中に自分の存在、アイデンティティーを確立していた人は、それがなくなった瞬間に自分の中の一部、または全部を削られたような錯覚をするのだと思う。

まるで、古い小説や映画の中で扱われがちなテーマのようにも感じられる。


SEKAI NO OWARI のボーカル、深瀬さんが「医者を目指して勉強していたが、強い薬の服用により学習内容、記憶を失ってしまった過去がある」と、メディアで語っていたことはご存じだろうか。

「自分の世界は終わった…」と感じたことが、このアーティストグループ名の由来とも言われている。

彼にとってのアイデンティティーは、医者を目指して勉強を積み重ねてきた自分だったのかもしれない。

こうして、人はあらゆる場面で自分のアイデンティティーを失うようにできている。これはもう自然界の法則ともいうべきことで、世の中の仕組みの中に組み込まれている。

なぜ、宇宙はそうなっているのか? 自然界はそうなっているのか?

そう考えた時、「やり直す力」そのものが、人間の中にある唯一のアイデンティティーなのではないだろうか、と思うことがある。

あきらめない力だったり、やり抜く力(GRIT)とも呼ばれる。

種から芽が出て、花が咲き、種子が落ち、枯れ、そして新しい生命が再び誕生する。

人間の場合、この「種」にあたるものが「やり直す力」なんじゃないだろうか?


RADWIMPSの『前前前世』という曲の中でこんな歌詞がある。

「君は僕から、あきらめ方を奪い取ったの」


映画『君の名は』をご覧になった方はこの歌詞の意味がすぐにピンと来ると思うが、死んでしまったヒロイン「宮水三葉(みつは)」を過去にさかのぼり生き返らせるというストーリーがこの映画の中心。

そして、彼女を生き返らせる(厳密には死なさない)ことに成功させるのがもう一人の主人公「立花瀧(たき)」だ。

瀧くんから三葉は「あきらめ方を奪い取った」とイメージさせる歌詞だと私は考えている。そして、だからこそのハッピーエンドだったのだとも。

そう考えたとき、世界(もしくはプラットフォーム)から人が消えていく中で、自分という存在、つまりアイデンティティーを失わないためにもっとも大切なものは「やり直す力」なんじゃないかと思うのだ。

というよりも、この世界、この宇宙は、「やり直すこと」を前提に作られているとした考えようがないように出来ている。

「やり直す」ことがこの世界の標準装備であり、デフォルトなのだ。

だとしたら、失うこと、奪われること、消えてなくなることは、人間が生きる中で受け止めなければならない、もっとも大切なことのようにも思える。

なぜこの世界はそのように作られているのか。

その答えは分からずとも、世界はそのようにできていて、自分を確立する唯一のアイデンティティーとして「やり直す力」が前提に組み込まれているのだとしたら。

どんなにみすぼらしくても、どんなに格好悪くても、どんなに苦しくて絶望しようとも、何度でも立ち上がり、やりなおすこと、あきらめないこと、やり抜くことの中に、「生きている」という実感を覚えるのかもしれない。

そこから、目をそらしてはいけないのかもしれない。

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