ドラマ「カルテット」 4人が諦めたもの

「カルテット」が終わってしまった。私もいわゆるロスである。しかし昨今いわゆるロスと言われるドラマはよくあるけれども、カルテットの場合はなんかちょっと違うのである。

もちろんロスとは終わってしまったことへのロスなのだけれど、カルテットは終わった感じがしないのだ。キッズリターンの台詞を借りれば、まだ何も始まっていないのではないかとすら思える。だからまだどこかで続いているような気がして、それを観ることができないことに対してのロスという感じがするのである。

ドラマではそれぞれに過去や嘘を抱えて集まった4人がそれぞれに告解して受容されたように描かれてはいるが、そんなはずはないとこのドラマを見ていれば分かるのである。各回上塗りで展開されていくそれぞれの過去に翻弄されて観ていた視聴者ならば、穏やかに見えるこのドラマが実はとても乾いた恐ろしさ(人間関係に対する諦念にも近いもの)を秘めていると分かる。

その目に映しているだけではその人のことなど何も分からない。唐揚げだって一緒に食べてみなきゃその人がレモンを搾る人なのかどうかは分からない。そして僕たちは唐揚げレモン以上の個人的な何かを抱えて誰かの前にいつもいるのである。

だから最終回もどこか本当に大団円には思えなかった。ラストシーンの海岸で迷うシーンも、まだ誰かが、いやもしかしたら全員が何かを抱えている、それでも4人はとりあえず一緒に同じ方向へと歩いていくことを決めた、くらいにしか思えなかった。でもそのくらいでいいじゃないかと思えたことがこのドラマが掲げた救済でもあったと思う。

ドラマ「カルテット」は分かりあえぬということを描いていた。夫婦間でも、親子間でも、男女間でも、友人間でも、決して分かりあえぬということを徹底して描いていた。

言い換えれば、誰も自分のことを分かろうとなどしてくれぬということだ。よほど才能のある突出した人間か、罪でも犯すような人間でなければ人は自分に興味など持たない。分かろうとしてくれない。愛だって、それは理解することではなく理解を乞うことだったりする。

しかし、我々は誰かと「いなければ」ならない。誰かと「関係しなければ」ならない。嘘がなければ耐えられるわけがないのである。そしていつしか嘘を前提とした毎日にも慣れてくる。嘘であるかどうかも分からなくなってくる。

それでも、それでもなお、生きていくことの方が大切なのだ。

本当のことなど零してはいけない。「零す価値のある人」しか零してはいけない。零してしまった瞬間に、夫婦だろうが、親子だろうが終わるのである。劇中の宮藤官九郎演じる「夫さん」のように終わってしまうのである。

だからカルテットドーナツホールの4人は諦めたのだ。少なからず嘘に抵抗するフリをする世の中で生きることを諦め、非日常的な軽井沢で世間からはぬるま湯と揶揄されても、嘘そのものではなく、嘘の上に成り立つ心地よい人間関係を受容したのだ。

そうすることで唐揚げくらいは一緒に食べることができるのだから。すべてをリセットをしてもう一度誰かと会うことなどできないのだから。

ああ、見終わってなお、さらに、みぞみぞする。

#コラム #ドラマ #カルテット

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