東京と書いてとんねるずと読む

東京を感覚的に知ったのは「とんねるずを見ていて」だった気がする。

とんねるずは、都会的という言葉では物足りない東京の持つ生々しさを、体現していた。当世一流の美男美女と遊んでいるだけのようなコント、笑われるとも笑わせるとも違う「ただ楽しんでいる」といった印象を与えるトーク(特にノリさん)、相手が俳優でも歌手でもアイドルでもスタッフでも変わらない俺様感(特にタカさん)。

そう、とんねるずは例えるなら若くして六本木や西麻布の会員制の店の、さらに奥のVIPテーブルで同席する誰かと遊んでいるような、ものすごく内輪なのだけれど、誰もが憧れて覗き見たくなる空気をまとっていた。その空気を分かっている自分はイケてる、そう思える、そう思わされてしまうある種の同調圧力があった。まさにそれは東京の持つ同調圧力なのである。そしてタカさんはスポーツが好きで、ノリさんは白飯に合うおかずが好きという男の子的な身近さがまた効果的であったし、一周回って東京をさらにオシャレに見せていた。

実はそんな「東京」はどこにでもいる。クラスにも必ず1人や2人いた。あいつの感覚や物言いは何か新しい気がする、面白い気がする、洒落ている気がする、そしてそれが分かる俺でいなければならない。そんな同級生は確かにいた。そいつが喋る言葉は流行り、そいつの兄弟のバイト先はオシャレに見え、そいつは学校でうんこに行くと笑いながら言う。内輪における話題を最大化できる求心力。それは強さであり、行き過ぎると「笑わなければならない」とそれこそ悪い意味での同調圧力になるわけだが、笑いとはどうしても強さを否定できないのだ。

話は逸れるが、強さのある笑いという意味でとんねるずと双璧をなすのは、言わずもがなダウンタウンである。しかし、その両者は共演が話題になるほどに「違う」。彼らの本質的な違いは、お互いの呼び方にある。

ダウンタウンは「松本」「浜田」と呼び合い、とんねるずは「貴明」「憲武」と呼び合う。なんとなく両者は大阪か東京かで語られがちだが、本質はそこだけにはなく、2組ともに学生時代からの知り合いという共通点はありながらも、小学校の同級生だったか(ダウンタウン)、高校の同級生だったか(とんねるず)という違いにあると思うのだ。

まだ自我が定まらない中で全力で相手の名字を呼び捨てにする小学生のときに知り合ったか、自我が芽生え斜に構えて相手の名前を呼び捨てにする高校生のときに知り合ったかで、関係性や2人の作る空気は違うはずなのである。

どちらかが良い悪いという話ではなく、あくまで「違い」の話ではあるが、例えばとんねるずへの憧れを自認するナインティナインの2人は高校生のとき出会っている(食わず嫌いとゴチになりますはMCが入れ替わっても成立する)。

とんねるずは、56歳まで東京の高校生、それも強い高校生をやり続けてきたのだ(一方でダウンタウンは強い小学生をやり続けているわけだが)。30年以上クラスの真ん中で居続けること、しかもそのクラスの生徒数は日本の人口である。それがどれほど困難なことか、同世代にとって今どれほど心強いか。

たしかにとんねるず的東京は受け入れる側の年齢や状況により、熱狂的に受け入れられたり、また冷ややかに見られたりはする。私自身も憧れたり、没入したり、距離を置いたりした。それはまさに東京に対するスタンスそのものだった。

しかし、東京にはいつまでも東京でいてほしい。変わらない東京がいるから、そんな東京をどう感じるかでそのときの自分の輪郭がはっきりするから。東京にはいつまでも東京でいてほしい。ガラガラヘビを朝まで歌った夜明けの帰り道で情けねえと我に帰っては煙草でも吸う東京でいてほしい。

#コラム #テレビ

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#エッセイ 記事まとめ

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コメント1件

ダウンタウンのおふたりは幼少期は
『まっつん』『はまちょん』と呼び合っていたそうです
部室でものまねを披露し合っていたその空気のまま芸能人になったとんねるずは
今もお互いを名前で呼び合うけれど
名字で呼び合う(さん付けすらする)ようになったダウンタウンが
友達から相方へと関係性をはっきりと切り換えたのはいつだったのでしょう
この二組を対比させるのは興味深いですね
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