中田ヤスタカ的な、歌詞的な

案の定、中田ヤスタカは「歌(声・歌詞)」は音楽を聴かせるための手段だと言ったわけだけれど、いま現代を「歌詞」という手段で最も鋭く切り取れている中のひとりに中田ヤスタカは数えられる。

私は以前、小室哲哉が作詞家としての評価が後回しになりがちにことについて書いたが、小室哲哉が90年代に切り取っていたものと同じもの、つまりは非常に曖昧な時代の雰囲気というものを今切り取っているのは中田ヤスタカだと思うのだ。

はじめて彼の書く歌詞に興味を持ったのは4年前のPerfumeのシングル「FAKE IT」である。こうはじまる。

「世界で一番好きだ的な あなたしかいらないのよ的な あなたのために生きるわ的な ことなんて絶対に今は言わないわ FAKE IT」

主人公としてひとりの女の子がいるとして、この歌詞はその女の子に対していろいろな見方ができる歌詞になっている。強がりにも見える。寂しさも垣間見える。クールにも見える。またクールぶってるようにも見える。中田ヤスタカ本人もあまり具体的なことは書かないようにしていると言っていたが、「FAKE IT」に限らず、彼の書く歌詞は受け取る側に委ねる部分が非常に大きく、また大きくなるような言葉選びがされている(そのあたりの感覚的な言葉遣いが小室哲哉に似ていると思うのである)。

当然、私などに言われるまでもなく、多くの人が彼の歌詞に対してはそう思っていたし、その理由を「中田ヤスタカにとって歌詞は音楽より大切にされるものではなく、歌詞すら音として選んでいるからだ」としていた。冒頭で書いたように本人もほぼほぼそれを否定していない。

ただ、昨日音楽番組に珍しく出演していた彼はこうも言っていた。

「観た、聴いた人がそれ以上のことを考えるのが感動だと思う」

つまり与えられたものからそれ以上の「何か」を勝手に肥大させていくのが感動だと言うのである。言い換えれば聴いた人がどこまで勝手に「それ」を個人的にできるかということで、そのためには最初に与えるものとしてはできるだけ個人的(つまり具体的)でない方がいいということだ。

このスタンスを聞いてなるほどと分かるのである。中田ヤスタカの歌詞は前述の「歌詞を軽視している」という先入観で語るべきではないと分かるのである。普通、具体性を失った表現は凡庸なものになる。なぜなら差別化ができないからだ。しかし中田ヤスタカは違う。具体性がなくても差別化に成功している。なぜか。それは歌詞からストーリーを排除しているからだと思う。

歌詞にはAメロ、Bメロというものがあるくらいであるから少なからずストーリーの起承転結がある。たとえば「現状→変化→宣言」といったようなストーリー性が歌詞にはだいたいある。しかし先ほどのPerfumeの「FAKE IT」の歌詞で言えば「世界で一番好きだ的な あなたしかいらないのよ的な あなたのために生きるわ的な ことなんて絶対に今は言わないわ FAKE IT」と叫んだ女の子は特別どこかしらの感情のゴールへと辿り着くわけではないのである。むしろ再びサビで使われるこの歌詞へのフリとしてその他の言葉は存在している。

きゃりーぱみゅぱみゅの歴代のヒット曲にしてもそうだが、とてつもなくキャッチ―な1節を作り、それをどうピークにするかに主眼が置かれている全体になっている。ストーリーは感動への解釈の幅を狭める、もっと言えば意味を増やせば増やすほどその幅は狭くなるのだと言わんばかりである。

ややこしい線引きをするが、たとえば「恋をしようよ」という単純な歌詞も、その歌全体を通して「恋をしようよ」と言うために言うのと、そうでないのとでは違うということだ。中田ヤスタカは意味ではなく、まさに「恋をしようよ的な」ニュアンスなのである。だから凡庸にならない。

そしてその「的な」ニュアンスが、それこそ2010年代的な押しつけではない心地いい言葉となっていて、さらに(中田ヤスタカの本領である)圧倒的にリズムに乗せて伝えられることでますます心地いい言葉になるのである。

ストーリーでも、意味でもない。「心地よさ」を人は勝手に肥大させ、ストーリーを、意味を付け加えて感動する。

自らをシンガーソングライターではないと言い切れる出自と強さと純粋さが、今新しい感動を作り出している。

#コラム #音楽

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