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ウィー・アー・ハマショー

浜田省吾BARに入ると50代とおぼしきマスターが笑顔で「先ほどお電話いただいた?」と言って迎えてくれた。私は会社を出たときに一度電話で確認していた。今日は営業しているか、ひとりで行ってもいいものか。ホームページを見てはいたが更新が数年前で止まっていたからだ。

ーさよなら バックミラーの中に あの頃の君を探して走るー

重い扉を開けると、店は案外広く、長く曲がりくねったカウンター、奥にはスタンドマイクを備えた小さなステージがあった。客は4人いた。当然ながら会社にいれば部長クラスの年齢の人たち。どことなくハマショー風味の出で立ち(先入観)。私は促された隅に座り、コーラを頼んだ。

「お酒は飲まれないんで?」とマスターの質問に「ええ、それでもいいですか?ずっと来てみたかったんです」と答えながら店内を見回した。至る所に浜田省吾のポスター、ジャケット、歌詞などが貼られている。モニターにはライブ映像。ツアーTシャツのようなものも飾られていた。決してBARとしてはオシャレではない。オシャレなどハマショーではないのだ。

ー俺はこの街で生まれ 16年教科書を かかえ手にしたものは ただの紙きれー

「あれですか?やっぱりお好きで?」マスターはコーラを出しながらそう言った。お金や女性について聞くような物言いだなとは思ったが、浜田省吾BARに酒も飲めないのにひとりで来た若者(この店にとっては)に尋ねるファーストクエスチョンとして他に聞き方があるかといえばない気もする。私は「わりとお好きなんですよ」というような言い方はしなかったが、まあ似たような内容の返事をした。しかし、甘かったのである。

私など浜田省吾の浜、いや浜の氵も分かっていなかったのである。店の常連客たちは初めて来た私を試すような意地悪はしなかったが、私が好きな曲のタイトルを言うと「あ、あの曲はさ、ある時期に歌詞の途中の『で』が『を』に変わったんだよ」などというレベルの話をしてくるのである。カラオケもいわゆるカラオケ機材ではなく、ライブ映像を字幕機能をオンにして流して歌うシステムなのだが、曲によっては字幕歌詞が出ないものもある。しかし彼らはモノともしない。詰まるとこなく歌い上げ、コーラスも完璧。一体感が店内に一瞬で満ちていく。私はその曲すら知らないときもあった。ハマショーファンの奥深さ、ここにあり。

ーこの週末の夜は 俺にくれないか たとえ最初で 最後の夜でもー

「なんか歌いなよ」隣にいた客にそう言われた。彼は続ける。「この店に来るときは、今日はこれを決めてやる!って考えてくるもんだよ、ないの?」

そこまでの覚悟を持ってカラオケに来たことがある人間がこの世界にどれくらいいるだろう。

そうか、ここはハマショーになりに来る場所なんだ。少なからず誰しもにある「ハマショー的自分」を拡大させて爆発させる場所なんだ。悲しさにやられてるならバラードを歌い上げ、怒りをぶちまけたいならとにかく叫んで。それが「決めてやる!」という気分への覚悟なんだ。

ーJ.Boy 受け止めろ 孤独ってやつを J.Boy 吹き飛ばせ その空虚ってやつをー

私はその後、二曲歌った。他の客も優しく盛り上げてくれたおかげで羞恥心もなく(もとからないが)、つまりとても気持ちよかった。硬派でもない私の中にも生息していた小さなハマショーが肥大化した。

ーあの頃 星は君のもので 月は俺のものだったー

誰もが昼間は会社でそれなりの顔を作っているけど、俺は、いや、俺たちは本当はハマショーなんだよ。

言っている意味がもはや不明だと思うが、ハマショーは理屈を超えるのだ。この「俺は本当はハマショーなんだよ」が浜田省吾の魅力であり、すべてなのかもしれない。長々と書きましたが、要するに今度は誰かと行きたいのだ。

#コラム

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