甲子園球場に私が謝りたくなった理由

高校野球で、しかも甲子園球場で、自分が泣く日が来るなんて思いもしなかった。

呉高校 対 至学館高校。野球のことはあまり分からない私にも、目を離せぬ一進一退の試合展開は面白く、あっという間の延長12回だった。

呉市からバス43台で来たという大応援団の、その中の吹奏楽部のそばで、私は試合を観ていた。当然仕事で関わった呉市のテーマソング「呉ー市ー GONNA 呉ー市ー」を演奏してくれると聞いていたからであるが、試合途中からそんな大人の取るに足らない仕事への思いや承認欲求が恥ずかしくなるくらいに、グラウンドもスタンドも何かとても「特別」だった。

私なんぞが似合わない青春賛美やスポーツ賛美をしたいわけではないし、そもそも選手たちのTwitterなどを見ても、そこには大人が期待するただ一度に向き合う重さというよりも、試合内容について仲間と冗談を言い合う軽やかさがある。だからといって真剣ではないわけではなく、練習のツラさや悔しさを耐え抜いてきたのは変わらない事実だ。

それは吹奏楽部ら応援団も同じだと思う。彼らも誰もが必ずしも100%前向きにこの場にいるわけではないはずで、休みなんだからデートしたかったなとか、受験勉強したかったなとか、応援の練習のせいで親友と喧嘩しちゃったなとか、それぞれの今日を持っている。スタンドで涙を見せるためのエキストラじゃない。一人ひとりに「青春」がある。それでも何曲も演奏や声出しを練習してきたのは変わらない事実だ。

何とも集団心理のようなものが苦手な私にとって、甲子園は分かりやすいその象徴のひとつだったし、勝手にそう決めつけていた。しかし、実際に観に行くとそんな「一人ひとり」に気がつくのである。

確かに集団心理が引き起こした「バス43台」ではあるだろうが、移動のバスの車窓から見知らぬ景色をひとり眺めて演奏の復習をしながらも、好きな彼への甲子園土産は何しようかななんて考える吹奏楽部の女の子がいるはずなのだ。そのことに気がついて見る「集団」は美しいのだ。(別に妙な危ない話をしたいわけではない。極めて私の個人的な体験の話だ)。そんな一人ひとりが「呉ー市ー GONNA 呉ー市ー」を練習してくれたことに緊張と多少の申し訳なさと、同時に感謝が溢れてきてグラウンドではなく、スタンドを観て感極まってしまった。やはり極めて個人的な話である。同じ理由で泣いた人はいなかったはずだ。そして遠くに見える相手チーム側のアルプススタンドも引いて見ればただの集団であるが、同じように極めて個人的な「感極まる」が集まっている。ドラマがある、と言ってしまえばそれまでだか、総論や情報ではやはり人は心打たれない。

例えば現場で観て初めて気がついたのだが、吹奏楽部はチャンスでヒットが出ても演奏をしているからすぐには気がつかない。少し間があって事態を把握して歓喜する。そんな些細なことも近くで観ていて初めて気がつくし、心打たれる出会いだったりする。今回の私の仕事をきっかけとした動機はあまりに特殊かつ浅薄だけれども、吹奏楽部の歓喜への数秒間の遅れのようなものを発見し、描くことがせめてもの意味のある創作なのだろうなと教えられた。

集団を背負う大きな流れの中にたしかにある個人の瞬間は、しっかりと寄って見つめなければ分からない。そしてそこには内容に関係なく普遍性がある。甲子園でいえば、野球を知らない私が泣いてしまうほどの普遍性がある。いろいろと人生の時間は限られているが、何事にもなるべく時間を割き、クローズアップして自分の心に映していかければ判断など容易にしてはならないと反省した。

試合後泣きながら「吹奏楽部おつかれ!」と何度も叫んでいたら、同じく泣いている呉市からきたおじさんやおばさんに握手を求められたが、彼らは私を何者だと思ったか。フェンス越しに吹奏楽部に声援を送り泣く男は不思議であっただろうが、もしかしたら彼らからすれば思いもせぬ私の存在はクローズアップされた個人的な「感極まる」だったのかもしれないとも思った。

素晴らしい体験を、ありがとうございました。

#コラム

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