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奇跡の豊穣 1971

(9 min read)

・マーヴィン・ゲイ『ワッツ・ゴーイング・オン』
・スライ&ザ・ファミリー・ストーン『暴動』
・キャロル・キング『タペストリー』
・ジョニ・ミッチェル『ブルー』
・オールマン・ブラザーズ・バンド『アット・フィルモア・イースト』
・ジャニス・ジョップリン『パール』
・ローラ・ニーロ『ゴナ・テイク・ア・ミラクル』
・ローリング・ストーンズ『スティッキー・フィンガーズ』
・レッド・ツェッペリン『(四作目)』
・ヴァン・モリスン『テュペロ・ハニー』
・キンクス『マズウェル・ヒルビリーズ』
・イエス『フラジャイル』
・ジェスロ・タル『アクアラング』

まだまだほかにもたくさんあるこういった名作たちは、ことごとく1971年のものなんですね。そう、いまからちょうど半世紀前。特にアメリカ大衆音楽(やそれに関係のあるUKロックなど)の世界で、まさに雨後の筍のごとく名盤があふれ出たのが71年でした。

ピッタリ半世紀前ということで、どうして1971年にこんだけ名盤が噴出したのか、音楽的にどんな時代だったのか、アメリカン・ポピュラー・ミュージックを中心にきょうはちょこっとだけ考えてみたいなと思います。こんなに豊作だった年は71年以外にないと思いますから。

1971年がどんな年だったのかを考えるには、60年代のことをふまえ、そこからの変化がどんなものだったのかをおさえておく必要があります。60年代はカウンター・カルチャーの力が大きくなっていった時代。音楽は時代を、社会を、変えることができるのかといったテーマが、特に公民権運動、ヴェトナム戦争といった時代状況を背景にして、若者たちのあいだでもりあがりをみせていました。

もちろん「変えることができるのだ」というのが1960年代的な思想で、ラヴ&ピースの合言葉を旗頭に、音楽の世界でもサイケデリックなムーヴメントが隆盛でした。ピークに達したのが1969年8月のウッドストック・フェスティヴァル。そして皮肉なことに、このような幻想が崩壊したのもウッドストックを境にして、だったのです。

幻滅と失望、諦観が音楽の世界にもひろがりました。外向きの、といいますか社会に向かって強く大きな連帯と共感を呼びかけるというのが1960年代的な音楽のありようだったのですが、そういった<熱>が失われ、冷め、より内面的、個人的でデリケートな肌触りの音楽が出てくるようになったのが1971年だったのです。

内省的といいますか、1960年代から大活躍していた音楽家でこういった変化を最も如実に体現したのがスライ&ザ・ファミリー・ストーンじゃないでしょうか。「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」「マ・レイディ」「アイ・ワント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」「ユー・キャン・メイク・イット・イフ・ユー・トライ」「スタンド!」など、60年代にはあんなにも高らかに連帯を社会に向けて歌い上げていたスライだったのに、1971年にリリースした『暴動』では、すっかり様変わり。落ち込んだ、熱の冷めた、冷ややかで皮肉な世界を展開するようになっていました。

スライもウッドストックに出演しています。そのパフォーマンスは現在CDでも配信でも一個のアルバムになっていますのでだれでもカンタンに聴くことができますが、それはかなり熱量の高い高揚する音楽で、1960年代的スライの、というよりもシックスティーズ的カウンター・カルチャー・ミュージックの、一大象徴だったとすら言えましょう。

その後、スライはやはり陽気で高らかなシングル曲「サンキュー」一枚だけをリリースし1970年代に突入。そこであんなふうに変貌してしまったわけですね。『暴動』で聴けるスライの諦観や落胆、暗さ、重さには、60年代にあんなにも高らかに社会に向けて黒人も白人も手をとりあっていっしょに歩もうよと歌い上げていた姿を見いだすことなどできません。スライの変貌を象徴している、『暴動』ラストの「サンキュー」再演を聴きなしてみてください。

「ともだちがいるよ」と連帯を歌う曲がなくなってしまったわけではありません。キャロル・キングの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」(『タペストリー』)がいい例ですので、考えてみましょう。シックスティーズ的な、大きな社会的連帯を呼びかけるのではなくもっとパーソナルでプライヴェイトな、個人的なあいだがらをひそやかにつづる、といったテクスチャーに姿を変えていますよね。これが1971年という時代のフィーリングだったのです。

熱がないわけじゃありませんが、1960年代的な高揚する熱さではなく、70年代にはもっと内省的で個人的な親密さが歌われるようになりましたよね。シンガー・ソングライターたちの台頭とも大きな関係があります。曖昧な大きな未来、ではなく、もっと自分の内面を見つめ掘り下げていく個人的な世界が具現化するようになったのです。

シンガー・ソングライターの台頭と言いましたが、ソウル・ミュージック界における自作自演ムーヴメントだったともいえるニュー・ソウルのもりあがりも1971年的現象です。これはセルフ・プロデュース権の獲得ともおおいに関係しています。それでマーヴィン・ゲイの『ワッツ・ゴーイング・オン』のような画期的で歴史的な名作が生まれましたが、マーヴィンが先鞭をつけなかったらスティーヴィだってだれだって、70年代以後のブラック・ミュージックの姿はまったく違ったものとなっていたはずです。

自己の内面を見つめ掘り下げる内省的な音楽が支配的となったとくりかえしていますが、すなわち音楽的にもルーツ志向といいますか、21世紀的に言えばアメリカーナ的なムーヴメントが主流になったのも特徴ですね。ブルーズ、ゴスペル、カントリーなど南部のルーツ・ミュージックをダイレクトに養分として反映させた音楽が、ロック界でも主流となりました。

実はそういった動きは1960年代末からあって、ボブ・ディランやザ・バンドら周辺を中心にして68年ごろから動きはじめていたわけですが、リオン・ラッセル界隈のLAスワンプ系が大きな潮流となったのは1970/71年ごろでしたね。UKロック勢でもあきらかな動きとなり、ローリング・ストーンズの1971年『スティッキー・フィンガーズ』はこういったことがなければ誕生しなかった傑作です。

いっぽうでまだまだ1960年代的な熱を残す音楽もあるにはあって、1971年の名作でもたとえばオールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバム『アット・フィルモア・イースト』は、サイケデリックな長尺ギター・ソロをフィーチャーしたシックスティーズ的な音楽だったかもしれません。

そんなオールマンズでも、ブルーズなどアメリカ南部の黒人ルーツ音楽を滋養にして消化した彼らなりのルーツ・ロックをやっていたわけですけどね。1971年の米英ポピュラー・ミュージックの空前の奇跡の活況は、そんな1960年代的な残滓と70年代的内省&自己決定権との絶妙なバランスの上に成立していたのかもしれません。

(written 2021.4.3)

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