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わきまえる


ども。ひさつぐです。
ちょっと今日は胸の内をつらつらと。


私は半世紀以上生きてきたけどまだまだだと思っている。
若い頃は根拠のない自信や自分の可能性に(0゚・∀・)wktkしたものだが、ある時ふと自分自身を俯瞰してみたら「そんなたいしたことないやつだ」って気がついた。

主婦である私は1日の大半を料理のメニューをあーでもないこーでもないと考えて過ごしている。

朝ごはん食べながら夕飯どうしよう?とかもほぼ日課。

ありがたいことに専業なので仕事をしながら家事育児に気を配っている兼業主婦の方からしたらぜいたくな悩みなんだろう。
そこも冒頭の思考になった一因でもある。

前にもどっかで書いたかもしれないが私は22才で結婚するまでカップラーメンと黄身のつぶれた目玉焼きしか作ったことがなかった。

だからこの年になって、20代の若い友達が一人暮らしして料理したりお弁当作ったりしてるのを聞くとすごいなあって尊敬しかない。
一人暮らしどころか夕飯づくりの手伝いすらしてなかったし、結婚して初めて炊飯器に触ったというツワモノだ(ほめてないw)

デキ婚だったから育児メインだったけど離乳食さえベビーフードに頼りきり。
柔らかく煮たはずのお粥は芯が残ったし、煮詰めすぎて糊みたいにしてしまったこともある。

だんだんめんどくさくなってTKGが離乳食代わりとかとんでもない母親だった。
愛情はいっぱいあったけど、それだけ。
子守り代わりにテレビ見せてたら一緒にテレビにかじりついたり、ダメダメだった。

未だに料理の基礎の本は手離せないし、目分量がこわくて計量スプーンや計量カップがないと料理できない。
そこも自己評価が低い原因のひとつ。

みんなちゃんとやってるのになんで私は同じようにできないんだろうと罪悪感のカタマリで病みそうになったこともある。

母は目分量の女神様みたいな人だった。
いつも明るく母がいるだけで家の中がパアッと明るくなった。
ちょっとおっちょこちょいだけど料理がすごく上手で、いつも前向きで元気な人だった。

たぶん私は母と比べたら足元にも及ばない、という気持ちがずっとあって、母に「ひさちゃんはひさちゃんのよさがあるんだから」と言われてもなかなか理解できなかった。
言ってることはわかるのに、一般論としてならわかるのに、それを自分に当てはめると途端にデモデモダッテ状態になる。

小中学生時代のいじめも加味しているんだろうと今ならわかるんだが、当時は自己評価が底辺どころかマイナスだった。

自分に自信なんて持てなくて、だから未だに承認欲求おばけのかまちょ。
一種のメンヘラなのかなとも思うけど、あまり思考を深くすると深淵を覗いてしまったり陰々滅々の沼から浮上できなくなるおそれがあるからある程度まで考えたところで思考を放棄する。

これも自分の心の安寧のため、と深みにはまりそうになっては浮上してを繰り返してなるべく前向きに考えよう。って自分に言い聞かせた。

不思議なものでそんなことを繰り返してたら浮上するコツをつかんだのか、できるだけ前向きに、という理想の自分になりつつある(現在進行形w)

継続は力なり、なのかなとも思う。



うん。おもいっきり脱線したねコレwww


とにもかくにもそんな自己評価の低い私。

だけど、ある時「人は人、自分は自分」と思えるようになった。
母の「ひさちゃんのいいとこ」がおぼろげながら理解できるようになってきた、のかな?

それでもそれを理解して自分の仄かな自信というものを携えて生きてみたけど、そのとき私は盛大にやらかした。
自信が慢心になってしまった。

まあ、ありがち。

気づかせてくれたまわりの人は今はもう没交流で、単に嫌われたのだと思う。
その時に気づかなかった私はしばらく憤怒のカタマリになってたから、本当の意味で理解して反省したのはずいぶん後になってからだった。

あの当時の事は今でも苦い経験だったと思うし、自分の愚かさがそのまま返ってきた黒歴史みたいなもの。
でも忘れちゃいけない事。


それから私は長い時間をかけて「分相応をわきまえる」ことを覚えた。
自分の今の発言は相手を不快にしてないだろうか、もししてたらできるだけ早く打ち消して誠心誠意謝る。

同時に「自分を正しく知る」ことも課題だった。

自分に何ができて何ができないか。
できないことは無理しない。
できることは自分にできる範囲で心を込めた言動につとめる。


自己評価、低いままでいい。
だってそれが私だもん。
できるだけ穏やかな生活をしていきたい。
まわりを不快にするんじゃなく笑顔になってもらえるように。


がんばっても無理なものは無理。
だったら無理じゃないところで恥ずかしくないように生きていけばいい。

その考えに至るまで今まで生きてきた半分費やしたけど、私は今の私が好きだ。
争い、嫌い。
悪口、陰口、聞きたくも言いたくもない。

ある意味それは「逃げ」なのかもしれないけど、逃げるが勝ちとも言うしね!

だから私はわきまえる。

せっかくの一度きりの人生だから、笑って穏やかに平和に過ごしたい。
ツイッターもそうだ。
わざわざ愚痴書いて読んだ人が嫌な気持ちになるくらいならメモ帳に好きなだけ書いて昇華すればいい。

誰かに見てもらわなくても大丈夫になったのはここ数年くらいだけど、若いとき、反省したとき、愚行に気づいたとき。

こうなりたい、こうであればいいな、と思い描いた理想の自分に限りなく近くにいる。
手前味噌だけど、自分が自分をほめなきゃ誰がほめてくれるの、と思ってるからこれでいい。


自分の力量を正しく推し量って、無理はしない。

わきまえて最期まで優しく穏やかに生きていきたい。




ということをなんとなく考えていたので書きたくなった。

ので書いた。

おわり(*´∇`)ノ

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