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1月17日。 趙紫陽「人治ではなく、法治」

趙 紫陽(ちょう しよう、ヂャオ・ズーヤン、1919年10月17日 - 2005年1月17日)は中華人民共和国の政治家。
趙紫陽は「第2世代」の政治指導者として中国共産党中央委員会副主席、国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会総書記などを歴任した。1989年の天安門事件で失脚し、2005年に死去するまで16年間の軟禁生活を余儀なくされた。
趙紫陽は、四川省における食料問題の解決などの農業改革をはじめ、1-2億人が住む沿岸地域をグローバル市場に組み込む経済改革で功績をあげ、「経済的には右、政治的には左」であった鄧小平に胡耀邦とともに引き上げられた。当時は腐敗が蔓延していた。天安門に集まった学生たちは「腐敗の一掃」と「報道の自由」を要求し、ハンガーストライキを実行し民衆の支持もあった。趙紫陽は学生たちとの対話を実行するが、指導部は戒厳令を断行し犠牲者をだした。趙紫陽は民主化運動の弾圧に反対したことで、「党を分裂させた」「動乱を支持した」との罪状ですべての公的地位を奪われた。
軟禁生活では厳しい監視の目があったが、趙紫陽は極秘のうちに元部下のインタビューを受けた60分テープ約30本の音声回想録を残していた。今回このテープをもとにして編集された『趙紫陽 極秘回想録』を読んだ。天安門事件前後3年間の中国政府の中での問題やそれをめぐる暗闘、鄧小平を中心とした複雑な人間関係が克明に描かれている。
16年間の軟禁中に、熱烈な共産主義者であった趙紫陽は「議会制民主市議こそが近代国家の最善の道であり、中国が目標とすべきものだ」との結論に達している。市場経済だけでなく政治体制も議会制民主主義を採用すべきだ。さもなければ権力とカネが取り引きされ、腐敗が蔓延し、社会は富裕層と貧困層に分裂する。長い移行期間が必要であり、まず複数政党制と報道の自由を認めなければならない、としている。
あの天安門事件から30年経った。中国からの大学・大学院の留学生と接触する機会が多いが、ほとんどの人はこの大事件を知らない。情報統制があり、事件自体も趙紫陽という政治家も知らない。天安門事件後の国際制裁は日本が最初に解除し、経済発展の援助を行ったことも知らない。また、現在の中国の指導部は、腐敗撲滅運動の中で、胡錦涛を生んだ共産党青年団も、江沢民を頂点とする上海閥も影が薄くなった。建国の英雄たちの子孫である習近平ら太子党が制圧したようだ。
趙紫陽の命日である1月17日には、今でも小規模ではあるが追悼集会が行われていると聞く。市場経済の導入はいずれ政治改革をもたらす、という西側の予測は今のところ外れているのだが、内外の知識階級の中では趙紫陽の評価は依然高いものがある。趙紫陽は少し早すぎたともいえるが、いずれ中国に民主主義が根づくときには、「人治ではなく、法治」を主張した趙紫陽は偉大な先駆者として評価されることになるかもしれない。

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