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11月15日。孫 基禎(ソンギジョン)「これからは二度と日章旗の下では走るまい」

孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、新義州出身のマラソン選手。

1936年。日本では斎藤実内大臣、高橋是清蔵相が暗殺された2・26事件が起こり、ファシズムの影が色濃くなっていく。同年のベルリンオリンピックは、ナチスオリンピックとも呼ばれた。そのマラソンで孫基禎は2時間29分19秒 で優勝し日本にマラソン初の金メダルをもたらした。胸に日の丸をつけて走ったが、彼は日本人ではなかった。日本が植民地として統治支配していた朝鮮人だった。

「マラソンは練習も試合も一人だ。苦しいのは自分だけだよ。だから勝てば、練習で苦しかった分だけ喜びも大きい」と語っていた。その生涯最高の歓喜の瞬間に、孫基禎が夢心地から我に返ったのは表彰台に立った時だ。国がない絶望感に襲われたのである。「優勝の表彰台で、ポールにはためく日章旗を眺めながら、『君が代』を耳にすることは耐えられない」。オリンピック記録映画「民族の祭典」では、表彰台ではうつむいたままであった。後で撮りなおした映像では、ゼッケンを裏返しに着て走っている。

優勝から16日目には『東亜日報』による日章旗抹消事件が起こる。孫基禎の胸にある日の丸を消して新聞を発行したのだ。これが南次郎朝鮮総督の逆鱗に触れ、記者が芋づる式に連行され拷問を受けた。そして新聞は無期限刊行停止処分にあう。この事件は韓国の小学校の国語教科書にあり、知らぬ人はない。

1940年、「再び陸上をやらない」という条件で入学した明治大学法科専門部を卒業。1947年、ボストンマラソン監督として教え子が優勝。1950年のボストンマラソンの監督として、1位、2位、3位を独占し、奇跡的大勝利をあげた。1948年のロンドンオリンピックと1952年ヘルシンキオリンピックでは韓国選手団の総監督をつとめる。

1984年、ロサンゼルスオリンピックの聖火ランナーとして、市内のコリア・タウンを走る。そして、1988年には、大韓陸上競技連盟会長にも就任し、76歳の孫基禎は母国で開催されたソウルオリンピック開会式では聖火をスタジアムに持って登場し、世界に感動を与えた。

2002年11月、孫基禎は、90歳で人生マラソンのゴールを迎えた。1936年当時、表彰台上の24歳の孫の手の中にあった月桂樹の苗木は、今では堂々たる大木となっている。孫 基禎の栄光と苦難の人生の軌跡によって、日本と朝鮮との歪んだ近代史の本質を垣間見ることができる。

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