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1月2日。ダリル・ディーン・スペンサー「今日ボクは、シングルヒットに二塁打、三塁打、本塁打を打った。珍しい記録とだと思わないかい? これをサイクルヒットと言うんだ」

ダリル・ディーン・スペンサー(Daryl Dean Spencer, 1928年7月13日 - 2017年1月2日)は、アメリカ合衆国カンザス州出身のプロ野球選手。プロ野球指導者。

1952年にニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビューし、以後はセントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャース、シンシナティ・レッズと渡り歩いたメジャーリーガー。

1964年の来日早々の記者会見で「俺のバットと頭脳で阪急を優勝させる!」と豪語した。そして予告どおりスペンサーは1年目から打撃で大活躍し、36本のホームランを放つ。 日本では、小柄な選手が守ることの多かったセカンドというポジションを、190センチを越える大柄なスペンサーが守ったのだからファンは驚いた。ファイティングスピリットあふれるプレーで、大立ち回りを演じることもあった。そういう試合のインタビューでは「後ろからの攻撃に驚いたかって? そんなことはない、日本人は奇襲が得意じゃないか」とパール・ハーバーを皮肉って答えた。日本での7年間の通算成績は、2割伊7分5厘、152本塁打、391打点。

「スペンサーメモ」は、後に阪急に影響を与えた。対戦打 者の傾向やクセを把握し、その場で守備位置を変えるスペンサーの動きは他の選手にも影響を与え、野球にも頭脳が必要であるという意識を植え付けた。打撃や 守備だけではなく、走塁技術やインサイドワークなど大リーグ仕込みの緻密な野球を日本に持ち込んだのは「ドクター・プロ野球」こと、スペンサーだ。

熾烈な三冠王争いを展開した、そしてID野球(important data)を標榜した 野村克也監督は、もしスペンサー選手やブレイザー選手がいなかったら、日本のプロ野球は精神野球の域をなかなか脱せず、日本の野球は相当遅れていただろうと語っている。名将・野村はライバル・スペンサーから学んだのだ。

「サイクルヒット」は、それを達成した日のインタビューで語ったものだ。強かった阪急の主砲は長池とスペンサーだったという記憶はあるが、少年時代の草野球では、このサイクルヒットという言葉は聞いたことがなかった。大柄でよく打つ選手という印象はあったが、実はスペンサーは現在盛んになっているデータ野球を日本に持ち込んだ日本プロ野球の恩人だったのだ。

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