9月14日。赤塚不二夫「自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。そしたらね、みんなの言ってることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの」

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年(昭和10年)9月14日 - 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。天才・赤塚不二夫を記念した赤塚不二夫会館が青梅市にある。会館のある住江町は、昭和の懐かしい映画看板を掲げてまち興しに取り組んでおり、その一角に2003年にこの会館がオープンした。青春時代に観た「哀愁」「第三の男」「駅馬車」など、映画黄金期の傑作の看板が並ぶ町並みは懐かしい。 「天才バカボン」「おそ松くん」「ニャロメ」などの作品で知られる赤塚の作品と、幅広い交遊ががわかる資料が楽しくみれるように工夫されており、中は案外広い。

赤塚不二夫は、手塚治虫を先頭とする漫画の勃興期に赤塚はその才能を思う存分に発揮し、世の中に良質の笑いを提供したギャク漫画の王様である。「シェー!」「これでいいのだ」などの言葉は多くの人が覚えているだろう。

伝説のトキワ荘に集った漫画家志望の若者達は、神様・手塚治虫の「一流の音楽、一流の映画、一流の芝居、一流の本」を実行したから、同時代の若者とは何かが違ったから、成功者が多く輩出したのだろう。その何かは「志」だろう。「僕たちみんな貧乏だったけど、志だけは溢れるほどあったのだ。」と本人が語っている。そして赤塚不二夫はこれに加えて、「人」に会い続けている。「毎晩飲みに出てマンガ以外の違う世界ができたのは、本当に面白かった。それがまたマンガに跳ね返り、発想の源になっていく」。

「わたしは文部省がこのシリーズ(「天才バカボン」)をなぜ「道徳」の副読本に採用しないのか、また日教組がそうすることをなぜ文部省に迫らないのか、理解できない」とまで作家の井上ひさしは述べている。

「赤塚不二夫120%」(アートン)という自伝を読んだ。この中から赤塚不二夫の創作の秘密を取り出してみたい。「僕はギャグマンガを描く時、多重構造で考える。(テーマは文化人向き、ストーリーを組み立てて、台詞はサラリーマン、大学生向けにはアクションを含めた台詞、高校生にはダジャレ、中学生にはアクション、小学生には動物)、、、だから自慢じゃないけど、読者層がすごく広い。」「とにかく、誰も描いたことにないマンガを描こう、それしか考えなかった。それで描いたのが、「おそ松くん」だった。」「マンガっていうのは、社会と同時進行しているものなのだ。だから自分だけ先走りすぎても受け入れてもらえないし、時代と一緒に生きていないとつまらない」。

赤塚不二夫は、若い頃から晩年まで、自分を最下層に置いて人から教えを請い、接するあらゆる人から学び続けようという姿勢を貫いている。有名になっても謙虚な人柄は変わらなかった。こうした社会、時代、読者、と一緒に生きていこうとする表現者としての仕事への取り組みの結果生まれる作品群が、共感を呼んだのは当然かも知れない。

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