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12月9日。 坂口謹一郎「酒は生き物が造り、その上に人間という微妙なセンスの動物が鑑賞するのであるから、今、科学にとってこれほど手ごわい相手はたくさんいない」

坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年11月17日 - 1994年12月9日)は、日本の農芸化学者。

発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。 結核を患っていたため禁酒令が医者から出ていたが、禁酒令が無意味だったことがわかり、40歳で酒を覚えた。これ以降、体重が増えて健康になった。

「酒によりて得がたきを得しいのちなれば酒にささげむと思い切りぬる」。

50歳で歌を詠み始める。旅の途中で「歌のようなもの」を書くくせがあると自嘲しているが、1975年には新春御歌会始めに召人とのなっているから優れた歌人でもあったのだろう。

「うま酒は うましともなく 飲むうちに 酔ひてののちも 口のさやけき」。

「スコッチのつはものこもる古城にはるけくともるまもりのともしび」

「かぐわしき香り流る酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは」

「とつくにのさけにまさりてひのもとのさけはかほりもあじもさやけき」

「うつりゆく世相横目にこの余生いかに生きなむと盃に対する」

「うちに千万無量の複雑性を蔵しながら、さわりなく水の如くに飲める」酒がいいとのことだ。吟醸酒のブームを予言していたように思える。

坂口は微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明している。そして1967年には「永年にわたる微生物学の基礎および応用の分野における貢献」によって文化勲章、1974年には勲一等瑞宝章を受章した。那覇の沖縄県酒造組合の前庭には揮ごうした「君知るや 名酒 あわもり」の文字が刻まれた大きな石がある。故郷の上越市にはその業績を記念した「坂口記念館」があるが、その建物は元々同じ高田市内にあった旧家を移築したものである。那覇と上越には訪問しなければならない。

ベストセラーになった『世界の酒』 (岩波新書)以降、『日本の酒』、『古酒新酒』、『愛酒楽酔』、著作集『坂口謹一郎酒学集成』(全5巻)などを書いた。『愛酒楽酔』の中に、先日訪問した山梨県登美のサントリーのワイナリーの創設時のエピソードがあった。国産のシャンパン酒をつくろうとした日本は、ラインのぶどう酒の専門家であるハムというドイツ軍人を雇って山梨県登美村に東洋一の大ぶどう園をつくるが、大震災もあり荒廃した。寿屋の鳥井信治郎社長が赤玉ポートワインをつくるのに国産ぶどうを使いたいというので、坂口は川上善兵衛の指導を受けることをすすめた。川上は登美の農園を買うことを鳥井にすすめた。こういう経緯が書いてある。また、この本は、1992年にサントリー広報室の小玉武に依頼したとある。小玉さんはTBSブリタニカ時代に「知的生産の技術」研究会の出版の関係でお会いしたことがある方だった。

酒で健康になった坂口謹一郎は、専門の研究が酒と大いに関係するという特権を縦横に生かした道を迷いなく歩いた。科学にとってまことに手ごわい難敵であった酒は、また100年になんなんとする97年にわたる生涯の親友であった。今宵は、坂口謹一郎博士をしのびながら、愛酒を堪能しよう。

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