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9月24日? 太田薫「君、ステーキ食ったことがあるか。労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」

太田 薫(おおた かおる、1912年1月1日 - 1998年9月14日?24日?)は、昭和期の労働運動家、日本労働組合総評議会議長。春闘方式を定着させた人物。

宇部窒素に入ったが、第2次世界大戦後労働運動に身を投じた。1958年から1966年まで総評議長を務める。「太田-岩井ライン」と呼ばれる指導権を確立。 60年の安保,三池両闘争を乗切り、経済闘争に力点を置いた「春闘方式」を定着させた。民間単産・合化労連委員長の太田と官公労・国労出身の岩井章のコンビだ。太田の春闘方針は「資本との独立」「ストライキ」が基本だった。「みんなで渡ればこわくない」というのが春闘誕生のきっかけだった。「神武以来のストライキ」、「ヨーロッパ並みの賃金を」、「青年よハッスルせよ」と人びとを鼓舞し、日本の賃金を国際的水準にまで高めることに貢献した。

威勢の良い数々の発言は太田ラッパの愛称で親しまれ、1960年代は「昔陸軍、今総評」とまでいわれた総評の全盛期だった。1987年まで総評の顧問であり、新聞やテレビでの歯切れの良い発言はよく覚えている。

1979年の美濃部都政の後継を選ぶ京都知事選で鈴木俊一に敗れた。1989年の全日本労働組合総連合会(連合)の発足で、社会党左派を支持した太田の影響力は低下した。

「労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」は、1965年ごろ、国鉄労働組合員に語った言葉である。戦後のある時代を率いたリーダーだった庶民派の太田薫の大衆に向けたメッセージは、その時代の的に当たっていた。

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