4月13日。後藤新平 「カネを残すのは下、事業を残すのは中、人を残すのは上」

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は日本の医師・官僚・政治家。

後藤新平は岩手県の出身ということになっているが、伊達藩の支藩の出身である。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、鉄道院総裁、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局総裁、、、と仕事師としての切れ味を髣髴とさせる経歴である。4月13日、永眠。

台湾での優れた仕事ぶりがその後の栄達に影響を与えたが、台湾総督は児玉源太郎、民政長官は後藤新平、殖産局長は新渡戸稲造という豪華版だった。新渡戸稲造は後藤新平の死去に当たって大阪毎日新聞に「伯は実に智・仁・勇の三徳を程よく兼備した人と思う」と評した。他の新聞記事を見ると「朗らかな政治家」「アイデアと実行の人」との評である。

後藤には「大風呂敷」という評価がついてまわるが、15年先が見えるので、世人の誤解、先輩の反対を受けると自分でも言っており、「遠眼鏡 一人で持てば 罪つくり」という歌も詠んでいる。

後藤新平は明治の生んだ大事業構想家で、偉大なプロジェクトデザイナーである。後藤は国家のビジネスモデルをいくつもつくった。日本最初の植民地・台湾経営の成功、大規模国策会社・満鉄総裁としての新国家建設、東京市長・帝都復興院総裁としての大規模な都市計画、と見事な仕事を成し遂げている。国や都市を生物と見る考え方(医者出身)、徹底的な調査研究(調査の後藤)、目的へ向けた組織設立・簡素化・行政改革、大胆なスカウト人事による人材活用、長期戦略としての人材育成のための学校建設・教育の重視、といったプロジェクトの成功モデルが後藤新平の取り組みの特徴である。結果として、後藤は都市政策の父とも呼ばれることとなった。

人は人生で何を遺すべきか。内村鑑三は「金、事業、思想、さもなくば高尚なる人生」と言ったが、後藤は、人、事業、金という順番を示した。人を残すことが最上であるという考え方である。広い意味での教育、人材の発掘と育成を重視する。金は無くなり、事業は頓挫する。しかし、人は事業を生み、金をつくることができる。人づくりこそがもっとも価値が高い。

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