4月10日。 五十嵐健治「人が嫌がる仕事であれば、競争する相手も少なく成功しやすいのではないかと考え、明治39年3月、洗濯屋を始めることにしました」

五十嵐 健治(いがらし けんじ、1877年3月14日 - 1972年4月10日)は、日本の実業家。

五十嵐健治はわが国の初のドライ・クリーニングの技術を開発した人物。敬虔なクリスチャンとしてとしての信仰生活が、事業展開を支えた。

2017年3月に五十嵐健治洗濯資料館を訪問した。下丸子のキャノン本社の向かいの広い敷地の事業所の一角に資料館がある。洗濯業界の最大手・白洋舍の創業者を記念した資料館だ。

小説家の三浦綾子が序文を書いている五十嵐の自伝『恩寵の木漏れ日』(同信新書)には、波乱に満ちた人生の軌跡が誇張なく淡々とした筆致で綴られている。高等小学校をで学業を辞めざるをえないので、「実業について立派に立身出世をして、五十嵐家を再興してみせる」と決心を固め上京する。その後、18歳で日露戦争の軍夫となり、戦後の三国干渉に憤激しロシアに入国するために諜報を目的に北海道に渡る。だまされて開拓地の監獄部屋で働かされるが、寝間着一枚で70キロを走り続け脱出。その教訓は「どんなつらい仕事でも監獄部屋の仕事にくらべては遊んでいるようなものだ」であった。

たどり着いた小樽の旅人宿で働き、そこでクリスチャン行商人・中島佐一郎から洗礼を受ける。「キリストの愛を味わせるたえに、生まれてから19年の間、もろもろの試練を賜った」。「いかに善き生活をなさんかということが大切であると思うに至った」。

函館の洗濯屋の水くみ仕事を手伝う。そして牧師を志し、上京するが神学校に入れず、三井呉服店(三越)に入社する。「10年辛抱しよう。そしてその間に独学で勉強し、聖書も学び、30歳になったら伝道のご用を始めよう」。そして10年間、一日3時間以上の読書の時間を持つことができた。「人の信用を受けるのも、不信用を招くのも、平素の心がけ一つである」とし、それも信仰のおかげだと述べている。

白洋舍の事業自体は、時代の追風や逆風の中で発展していく。爆発事故の災難が襲ったときには「主、その愛する者をこらしめ、すべてその受けたもう子を鞭打ちたまえばなり」との聖書の一節から励まされている。「学術を基礎として技術を磨き、科学的に、合理的に経営するにあらざれば、真実の発展を見ることはできない」。

ドライクリーニングと洗濯が完全に行われたなら、衣服の消耗は少なくとも1割以上防止できると考え、実践する。関東大震災では大損害を受けた。五十嵐は「人生はひっきょう難関の連続である」と達観している。

基督教信奉者らしいのは、「洗濯」に関する雑誌「家庭と洗濯」「お台所」などを発行して啓蒙につとめたり、安全への啓蒙活動に熱心だったり、「白洋舍化学研究所」を設立するなど啓蒙家としての側面があることだ。「家庭安全協会」を設立するなどして、晩年には産業安全功労者として勲三等瑞宝章をもらっている。洗濯業の社会性を意識していたのだ。社長退任後は、福音伝道に専念しようと、夜間神学校で聖書を学び、66歳ではギリシャ語を学ぶ。戦後は日本中を旅し、福音を語った。95歳の生涯であった。

「計画魔」であった五十嵐は三越で10年働き、「クリーニング業こそ、神と人に仕える天職である」と信じ、30歳で独立し白洋舍を創業する。「人の好まぬ営業の方が自分には適するらしい。、、、当時は清掃業か洗濯業であった」。「神から与えれた聖業である。よし、この洗濯業に生涯を打ち込んでやっていこう」。ひとさまの垢を洗う仕事は、人がいやがる仕事だとして始めたのだが、それを聖業であると考える境地にまで達している。

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