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1月9日。芦田伸介「次々と私の人生という名の『舞台』に登場してくる『名優』たちのおかげで、私の『人生劇場』が波乱万丈になった」

芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年3月14日 - 1999年1月9日)は、日本の俳優。

1937年、学校を中退して満州に渡り、大連で『ワーニャ伯父』の舞台を観て新劇の世界を志す。森繁久彌らと知り合う。敗戦後の安東ー奉天260キロの脱出行で、修羅場をくぐり同志となり、本当の夫婦になったという。

1958年、タクシー事故に遭遇。後部座席からフロントガラスを顔面から突き破り、顔面の裂傷や右眼球破裂など重傷を負う。顔の傷と共に失明の危機や、失語症となり、役者生命が危ぶまれるが、翌年には再起を果たす。「自分の役への異常な執念、この役者独特の「業」こそ、役者の「命」ではないのだろうか」。

1961年、TBSのドラマ『七人の刑事』に沢野部長刑事役でレギュラー主演。「社会の不条理と、この裂け目に転落した人間の上に、社会の歪みの典型のひとつがより具象的に投影される」番組であり、主人公は非常な殺人を犯させた「社会」である。これは本人の解説だ。この人気番組は9年間382回で終わるのだが、その後、「新」「新新」と続き、6人の刑事は変わったが、芦田だけは残った。1966年(昭和41年)のNETのドラマ『氷点』で深い葛藤を内に秘めた中年男を演じ、この2作で爆発的な人気を得た。芦田伸介は渋い演技に定評があり、私の父がこの俳優に似ていたので、親近感を持って「七人の刑事」をみていたこともあり、久しぶりに亡き父を思い出した。

1996年、80歳をまじかに控えたころに書いた自伝『歩いて走ってとまるとき』の中で、深いシワを眺めながら、「まるで芝居のような一生だった、、」と述懐している。出会った人たちは、その時の「舞台」でふさわしい大事なことを教えるために登場した「名優」だった。彼らのおかげで波乱万丈の「人生劇場」は波乱万丈になった。もっと生きたかった人たちの「思い残し」というタスキをかけて、自分は人生を走り続けている。彼らの「夢の続き」を生きている。走り続けよう、と芦田伸介は「あとがき」で書いている。舞台、名優、人生劇場、そして人生は「たすき」をかけて走る駅伝だ、というたとえはよくわかる。演技と同じく渋い、深い人生論である。

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