6月16日。梶山俊夫「何百年という、時も場所も超えて、作者と見る側とがごく自然な呼吸で、同次元で交感することができる。ぼくもそんな絵が描けたら、それが一番の理想だと思った」

梶山 俊夫(かじやま としお、1935年7月24日 - 2015年6月16日)は、日本の絵本作家。

1962年、抽象画でシェル美術賞を受賞して渡欧し1年ほど滞在。再び家族での渡欧を計画中に、奈良時代の廃寺跡・国分寺跡を巡る旅で、「畑や田んぼのあぜ道を歩いている自分が、一番正直な我が身の姿」だと気づき、日本で絵を描こうと決心した。

国宝「鳥獣戯画」を見たとき、作者である鳥羽僧正が「絵巻を挟んで向こう側に座っていって、じっと見ているような気がした」。同行の福音館書店の編集者に「絵本をやってみませんか」と声をかけられ、絵本の世界に入っていく。「何百年という、時も場所も超えて、作者と見る者とがごく自然な呼吸で、同次元で交感することができる。ぼくもそんな絵が描けたら、それが一番の理想だと思った」のだ。木島始とくんで「鳥獣戯画」を絵本にしたのが、「かえるのごほうび」である。

「かぜのおまつり」でブラチスラバ世界絵本原画展で金のリンゴ賞、「いちにちにへんとおるバス」で講談社出版文化賞、「こんこんさまにさしあげそうろう」で絵本にっぽん大賞を受賞をするなど、絵本界で成功する。友人の天野祐吉は「基本的にアップもロングもない、つねに対象と一定の距離をおいて描いている」と語っている。人間味あふれる、ユーモラスな筆致は、みる者の心をほのぼのとさせる絵である。
私がみた 『白い鳥』という絵本は、文章を書いた椋鳩十が大分県の九重の山々を歩いていたときに出会った一人の老婆が話をしてくれた「朝日長者」の物語を土台とした民話調のストーリーである。長者の屋敷と21の蔵、100人の家来、500人の召使がいた。長者たちは、村人をいじめたり、米でできたもちに矢をはなったりした。突然に大地がゆれて、泥水がでて、たんぼは沼地にかわった。村人は山を切り拓いて平和に暮らすというストーリーだった。

2008年に訪問した手塚治虫記念館では漫画の歴史を展示していた。鳥獣戯画が漫画の原点とされていた。北斎漫画、地獄草子、江戸時代の鳥羽絵本、明治時代のポンチ絵(日清から日露にかけて戯画錦絵を描いた浮世絵師の描いた石版刷り小型マンガ本。近代漫画の出発点)、明治の宮武外骨の「滑稽新聞」、職業漫画家第一号の北沢楽天の「東京パック」、小杉未醒の「コマ画」、そして大正時代に朝日新聞で活躍した漫画記者・岡本一平、4コマ漫画の最初の作品である「ノンキナトウサン」(報知新聞)と続く。漫画にも長い歴史と人物が連なっているのだ。その流れの中で手塚治虫という天才が花開いた。

コマわりがなく、文章もついている絵本の世界も、鳥獣戯画の流れの中にある。平安時代末期の鳥羽僧正との出会いによる影響が梶山俊夫という絵本作家を生み、その作品群が現代の子どもたちの情操に影響を与えているのである。

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