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1月16日。大屋政子「没落したらあかんねん!」

大屋 政子(おおや まさこ、1920年(大正9年)10月27日 - 1999年(平成11年)1月16日)は、日本の歌手、実業家、タレント、作家。

クラブ歌手であった政子は大屋晋三大臣と不倫の関係となり、29歳の時に55歳の大屋と結婚。帝人の大屋晋三社長の妻となる。大屋晋三は帝人を繊維業界のリーダーに育て上げた経営者である。参議院議員となり商工大臣、大蔵大臣、運輸大臣をつとめた9年間を除き、「死ぬまでやめない」が口ぐせだった通り26年間社長の座にあった。

大屋政子は実業家としての才能があった。戦後の別荘ブームを予想し独力で銀行から資金を借りて軽井沢の土地を購入、女性も楽しめるゴルフ場の建設、バレエ教室、関西ではじめて人間ドックなどを成功させ、大阪を代表する資産家となった。一方で、大屋政子バレエ教室、大屋政子バレエ財団の設立、舞台芸術振興財団理事長も歴任するなど文化活動にも熱心だった。民間外交にも熱心で、イタリアのサンレモ市と熱海を姉妹都市にした功績でイタリアから、そしてフランスからも勲章をもらっている。夫の大屋晋三の威光での成功と考えられがちだが、そうではなかったようだ。晋三は前妻や愛人との間に子供があり、給料は仕送りに消えてしまうので、政子が稼いでいた、という。

このような実業家としての面は知らなかったが、夫の死後のタレント活動はよく知っている。ピンクのミニスカートなど奇抜なファッションと愛嬌のある人柄でテレビ出演し親しまれた。「うちのお父ちゃん」が口ぐせだった。ある会で帝人の幹部を招いて話を聞いたことがある。政子に敵意を持っている様子だったが、なかなか手ごわい相手だったというようなことを語っていた。

お嬢様育ちだったが、19歳の時に父が急死し世間が冷たくなり、人を信ぜず金を信じるようになった。それ以降、「没落したらあかんねん!」が口ぐせとなった。しかし後年トラブルに巻き込まれ、資産を無くしている。そして最晩年には「ウチの人生はピエロ 化粧一枚はがしたら 血みどろの阿修羅の闘いやった、、」と述懐している。若い時に味わった怨念が大屋政子の活動のエネルギーの源泉だった。

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