2月14日。和田寿郎「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」

和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 2011年2月14日)は、日本の心臓血管外科医。

札幌一中(札幌南高校)を4年で終了し、北海道帝国大学医学部に進学。アメリカ留学後、札幌医大に奉職。

35歳、全国最年少で教授に昇進。テレビ番組でJALのスチュワーデスを見初め、ラブレターを書いて、結婚するといった行動力の持ち主だった。

石狩川の渡し船の船頭の流れにさからわないかじさばきからヒントを得て、血流をスムーズに制御できる蝶番のない弁を考案し、ワダ・ベンを開発するなど、臨床医学一筋の人生だ。

1968年、日本初の心臓移植手術を執刀し、その年の国内十大ニュースのトップになった。和田心臓移植は称賛されたが、18歳の宮崎君が移植後83日で亡くなったことにより急変し、マスコミの大バッシングを受けた。臓器提供者の脳死判定の手法が適切だったかや、患者が移植を必要としていたかをめぐり、医学界で議論が巻き起こった。内部告発、殺人罪での告発もあったが、不起訴になっている。いわゆる和田心臓移植事件である。

世界各国で先鞭をつけた心臓外科医は、みな告発、告訴されている。新しい医療行為は医師が切り裂かれ傷つきながら、道を切り拓いてきた歴史なのである。この影響で、1997年の臓器移植法施行まで脳死移植に関わる空白期間が生じた。

同じ札幌医大の医師・渡辺淳一は、和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。渡辺は「和田の手術の技量はずば抜けていたが,脳死判定は間違いで,脳死移植に対しての国民の拒絶反応を強くしてしまった」と語っている。

1977年、55歳。 東京女子医大の榊原仟教授から請われて、東京女子医大の主任教授に転出する。札幌医大で16名、東京女子医大で13名、計29名の同門の教授を育てた。「実技であり、スポーツと同じだ」とする手術は2万5千例を超えている。「真の教育とは、むしろ必要な基本だけを十分に理解させ、その先は自分で考え、自分で道を開かせるようにすべきものだ」。教育者としても和田は成功している。

『神から与えられたメス』という自伝には、医学界への提言も並んでいる。お見舞いは献血で!。運転免許証に臓器提供の「意思表示」を。空飛ぶ救急室の充実を図れ。屋上にヘリポートの義務づけを。病院長は医師ではなく専門職を。医師はゼネラリストをめざせ。内科と外科のバリアを取り払え。ヘリが操縦できり医師を。医師は信仰できる宗教を持て。神父や僧侶との協力を。医学生に救急車への同乗を義務づけよ。患者が置き去りの学会は変えよ。、、、、。

「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」。これは札幌医大を辞職して新しい病院を建てようとしていた和田に大野精七学長が涙ながらに語った言葉である。和田寿郎は決心を変える。それ以降、ひたすら「わが道」を行く。道はおのずと開ける、この言葉を信じよう。


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