9月24日。 永井英明「名人の残した足跡を幹にして、しっかりとした枝葉をつくて将棋界がさらに発展するよう願っております」

永井 英明(ながい ひであき、1926年(大正15年)3月8日 - 2012年(平成24年)9月24日[1])は、日本の将棋アマ強豪、近代将棋社社長。

1946年、中央大学在学中に菊池寛を顧問に将棋の会「青棋回」を結成、1950年(昭和25年)に雑誌「近代将棋」を創刊する。1981年から1990年までNHK杯テレビ将棋トーナメントの司会を務める。大山康晴とは近代将棋創刊から大山の死去に至るまで親交が深かった。1974年から1977年にかけて、東西の将棋会館の建設資金捻出のために全国各地を一緒に歩く。将棋普及のために、中国、インド、韓国、ブラジルの旅にも同行した。40年以上連れ添った大山名人の秘書役であった。

『大山康晴名言集 平凡は妙手にまさる』(佼成出版社)という著書があり、今回この本を熟読した。大山名人のもっとも身近にいて信頼されていた人だけに、「人生の名人」と本人が語る大山の日常の行動の記述と、その言葉の拾い方がいい。「盤上に繰り広げられる駒たちのドラマは、対局者同士がつくった共同作品」という永井は1994年に第1回大山康晴賞を受賞している。本望だったのではないだろうか。

2007年、「永井英明の盤寿を祝う会」において、長年に渡る将棋普及への功績に対し、日本将棋連盟からアマ八段を贈呈された。盤寿とは、数え年81歳のこと。将棋盤のマス目が「九」×「九」=「八十一」になることから。現役で盤寿を迎えた棋士は、近代将棋史上ではまだ存在しない。この永井自身も将棋界の恩人だったのだろう。

冒頭の言葉は、1993年発刊『大山康晴名言集 平凡は妙手にまさる』(佼成出版社)の「おわりに」にある最後の言葉だ。漫画家には、マンガ雑誌「ガロ」の編集者の長井勝一がいるように、表舞台に立つスターの影には、彼らを押し出すインフラとしてのメディが必ず存在する。将棋界では永井英明がその役を担ったのだ。

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