演奏会:ベートーヴェンの大公

ありし日の想い出が、今日という日を美しく染め上げる。

記憶は、過去に留まるものの様でいて、その実は、殆ど未来に属するものなのだ。

もしも、明日という日に希望を抱かせぬならば、それは、想い出とは言えない。

懐かしさとは、人間が人生に対して持ち得る、殆ど唯一の武具ではあるまいか。

大公トリオの第三楽章を聴いていて、ふとそんな様な事を考えた。

ベートーヴェンという人が、少しだけ分かった様な心地だった。

そんな勝手な迷信に襲われて、止めどなく溢れる涙を堪える術も見付からない。

迷信を許すという事、それこそは、名作が名作たる所以じゃないか。

2020年10月8日
杉並公会堂小ホール

ミュージックブランチ 2020-2021 第5回

ヴァイオリン:山中直子
チェロ:服部誠
ピアノ:本多昌子

午前十時半からの演奏会というだけで、多くの事を期待してはいけないという頭が働いたし、当初の予定と演者が一部変更になった事も当日に知って、余計に節度が働いたと思う。

そもそも、海外在住の音楽家が、この時勢では来日出来ない事など、随分に前から分かりきっていた事なのだから、演奏者の変更などには、初めから無頓着な興行のかも知れない。

兎にも角にも、おおらかな気持ちで、気構えずに聴きなさい、という趣旨の演奏会だ。

そんな風に割り切ってみたものの、実際には、心から好い演奏会だった。

ベートーヴェンの大公は、とても難しい。

雄大な音楽なのに、大きく構えれば、トリオという器が持ちこたえられずに必ず破綻する。

だからと言って、無難にまとめれば、至極冗長な音楽だ。

ピアノ・トリオという編成が、腰を据えて組むよりは、気心の知れた三人が短期に集まって、その都度一気に仕上げるのが定石となっている事も、大公が難攻不落の大作となる要因なのかも知れない。

演目は、大公(ピアノ・トリオ第7番)一曲。

だけれども、何の予告もなく、街の歌(ピアノ・トリオ第4番)の第三楽章が奏されて開始した。

そして、アンコールには、街の歌の第二楽章が奏される。

オープニングの街の歌は、ちょっと手探りな感じがあって、音会わせみたいなものだったと思う。

大公も出だしは、そんな雰囲気が残っていたかも知れない。

けれども、チェロの穏やかで染々とした音が次第次第に音楽全体を采配し、先ずはヴァイオリンが、続けてピアノが、ベートーヴェンの音楽に同化していった。

それとも、やっぱり、こちらが勝手にベートーヴェンに征服されたに過ぎないのかも知れない。

際立って美しいアンサンブルとか、冴え渡る技巧とか、目新しい解釈とか、何か光るものがあったかと言えば、何もなかった。

ただ、大公という音楽が、どうにも等身大で響いている、という感触だけがあった。

非常に誠実な演奏だったのだと思う。

本当は面白くない演奏だったのかも知れない。

ただ、それは、とても懐かしい感じがして、静かに回想する様な趣で、尚且つ、回想している今という時をも染々と慈しむ、重層的な感触に包まれていて、時はこの先も朗らかに刻まれ行くに違いないという手応えがあった。

音楽は時間にまつわる表現形式である事、人間には人生がある事、大公という音楽には、その骨格だけで組み立てられた様な造形美がある。

大変に強固ではあるけれども、一つ崩れれば全て崩壊する脆さ。

大公が、雄弁にして繊細たる正体が、明かされた瞬間に立ち会ったと言ったら、大袈裟であったろうか。

アンコールに奏された、街の歌は、オープニングの音楽とは、全く別世界の調べを帯びながら、静かに閉じられる。

過ぎ去った音の陰影は、その残骸が微かに脳裏に焼き付いている様な気もするが、本当の所は、どんな演奏であったのか、思い出す事は叶わない。

ただ、その時に蠢いた心の軌道を、危うくも辿る事が出来るか否かのものである。

そんな不確かさの中で、大公という音楽が、いよいよ美しく思われてならぬというなら、それは、人間には人生があるから、と言うより他には適当な理由が見当たらぬ。

ベートーヴェンという人は、そういう装置の発明者だったのか、それとも音楽とはそもそもがそういう装置であるものなのか。

何れ、大公がそういう装置となる様に、聴き手が生きねば働くまい。


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