旅の想ひ出:静岡


昨日から、一泊二日で静岡を旅行した。

目的は、静岡交響楽団のハイドンを聴く事だっから、観光は天気と気分次第で、ホテルに籠るか、映画でも観に行くか、そんな積りでいたのに、着いてみたら、ずっと雨模様だったのに、二日間しっかり観光しちゃってた。

静鉄全線と静鉄バスの600円以下の区間が乗り放題の一日フリー乗車券が、期間限定で半額(690円!)だったので、それならば、行ったことがない場所を観てみようかと思うのが人情というものだ。

14時18分静岡着のこだまを降りて、窓口でフリー乗車券を買い求めて、少し遅れて来た14時23分発の日本平行きのバスに飛び乗った。

乗り物に乗るために走るなんて、一体、何年振りの事か知ら?

日本平に着いてみると、あるのはテラスとロープウェイくらいのもので、コロナと悪天候と平日が重なりあったから、観光客も殆どおらず、いたのは、山梨から修学旅行で来ていたらしい小学生の集団くらいのものだった。

高所がとっても苦手なので、ロープウェイは辞めておこうと、バスの中では思っていたけど、余りに侘しい雰囲気だったので、つい魔が差して、ロープウェイに乗って久能山を往復する事に。

案の定、恐ろしい乗り物で、怖くて仕方がない。

もやが掛かって、窓ガラスが雲っていたのが救いだった。

それでも、漏れ見える景色は怖くて、美しい。

日本平も初めて、久能山も初めて、しかも久能山に東照宮がある事すらロープウェイに乗ってから知った。

一緒に乗り合わせて人達ちは、もれなく拝観料を納めて東照宮を参拝しに向かっていたけど、何しろ信心が浅いので、無闇に社寺に詣るのは抵抗があったから、一行とは裏腹に、久能山を降る方へと宛もなく進む。

一千段以上あるという階段を、何となく下ってみれば、途中に小さな稲荷社があった。

見るからに、観光客がお詣りする様な社ではなかったので、人気のない参道にひっそりとある佇まいは、余計に寂しげだ。

神仏に同情するなんて事は、とっても不敬な事とは思いつつ、このお社を大切に祀って来た人達が、今日の姿を不憫に思う事がないようにと理由をつけて、稲荷社にお詣りして、参道を鳥居まで下る。

やっと下って、振り返って見上げてみれば、頂上など見えないくらいに険しくて、久能山の霊験が初めて感じられた気がした。

ああ、ロープウェイは裏口で、この参道を上るのが正式なのだな。

だから、心して引き返す。

黙々と参道を上った。

下りよりも時間は掛からなかったけど、ロープウェイに辿り着いた頃には、肩で息をして、汗だくだった。

観光なのか運動なのか、もうどちらとも言えなくて、正直、何処かに腰かけて休みたい気持ちしか起こらない。

そのまま、ロープウェイに乗り込めば、行きに一緒だった人達が、涼しい顔をして座っている。

東照宮は、さぞかし厳かだったに違いない。

お詣りには、様々なかたちがあるものなのだ。


日本平に戻ったら、テラスからの景色が絶景との事なので見に行った。

一面すっかり霞んでいたから、遠望は皆無なのだけど、よい景色だと思った。

日本の風情は、やっぱり雨の中にある。

そんな事を思いながら、テラスを後にすれば、一時間に1本のバスに乗り遅れてしまったので、あと一時間、最終のバスを待つ事になってしまった。

テラスも終わり、ロープウェイも終わり、従業員も自家用車で帰ってしまって、観光客がただ一人。

冷たい雨が風に乗って吹き付ける。

辺りはすっかり暗くなり、寂しさよりは、風の吹き付ける音の怪しさが勝っていたと思う。

日本平は、本質的に、人間が住み着く場所ではないらしい。

ちょっと、拒絶されている気がした。

そんなだから、帰りのバスも一人貸切りだろうと思っていたら、途中にある学校で、大勢の女学生が乗り込んで来て込み合ったので、何だか、人間界に戻って来たな、という心地になった。

閉口した様な、ほっとした様な。


二日目も、フリー乗車券を買い求めて、今度は、新静岡駅から新清水駅まで静鉄に乗車して、そこから更にバスに乗り継いで、三保の松原へ。

勿論、終日雨模様だったから、富士山が望める訳もない。

バス停から松原まで行く途中には、御穂神社が鎮座する。

ここも、やっぱり無闇に詣るまいとは思ったのだけれども、土地を荒らす旅行者が、無断で歩き回るのも不敬だろうと思い直して、参拝してから松原を目指した。

御穂神社から松原までは、松並木が続いており、神の道と呼ばれているらしい。

そして、この道は、松原よりも美しかった。

雨が降って、他には誰も人が居なかったから、本当に神の道の様だった。

道の全てが正中という気がして、人間が通ることは憚られると思いつつも、景色に惹かれて通り抜ける。

海岸の松林は、塩害対策が一番の目的だろう。

今日は、台風の影響なのか、風がやや強かったから、松原の防風林としての本来の機能が、嫌と言う程よく分かった。

松林の中を進めば、風は止み、ただ静かに雨が降っている。

けれども、一度海岸へ降りれば、波の音が大きく、傘は風に煽られてひっくり返る。

羽衣の伝説の美しさはどこ吹く風で、松という木の健気な逞しさに、人間のやる事は、何時でも何処かいたずらだな、と思う。

帰り道、どうしてもバス停が見付けられなくなってしまって、静鉄バスに電話をしたら、案内が間違っていたらしく、隣のバス停まで歩いてしまった。

そこまで歩いたら丁度バスが来たので、却って都合が良かったのだけど、案内を間違った事に気が付いたらしく、何度も着信が入って来た。

だけれども、車中で電話に出る訳にもいかないから、新清水に着いてから改めて掛け直したら、電話口でとても申し訳なさそうな声がする。

静鉄グループは、大層、親切な交通機関らしい。

そんなに心配なさらなくとも、こちらは路線バスの旅を十分に満喫しているのです。


新清水駅からまた新静岡駅まで引き返して、今度は静岡駅から登呂遺跡行きのバスに乗った。

登呂遺跡の隣にある、芹沢銈介美術館へ行く為だ。

芹沢銈介の事は、昨日まで名前も知らなかったのだけれども、柳宗悦の影響を受けた染色作家というので、興味を持った。

実際に、美術館へ訪れてみて驚いた。

世の中に、こんなにも、人を幸せにするデザインというものがあるのかと思った。

芹沢銈介という人は、とても柔和で幸福感があって、しかも何処か鋭利な眼差しで世の中を見据えているらしい。

建物も美しくて、とても二時間では時間が足りない。

もっと早くに知っていれば、一日ここで過ごしたかったな、と思うくらい。

だけれども、そんなに気負って観に行ったら、疲れて面白くなかったかも知れない。

子供向けだと思うのだけれども、良ければクイズに参加して下さい、と受付の人に言われるがままに、クイズの答えを埋めながら、芹沢銈介の紋様の世界に埋もれていたら、クイズに参加した証として、絵はがきを一枚貰った。

その絵はがきも、やっぱり、芹沢銈介らしいものだった。

つい昨日まで、名前も知らなかった人だけれども、そのくらいの事は感じられるくらいに、芹沢銈介という人は、芹沢銈介の世界を持っている。

その世界は本当に柔らかくって、長閑なのに、少しも無駄のないタイトさもある。

これは、絵画や美術では決して叶わない仕事だ。

しかし、同時に、民芸にもまた決して宿る事のない、一人の人間の明確な意思がある。

伝統でも芸術でもない、如何にも柳宗悦に打たれた人の仕業ではあるまいか。

余りに去りがたかったので、帰りに小さな風呂敷を二枚、記念に買った。

展示されていた生活品としての紋様を、そのまま生活品として商品化してあるのに、どうにも別物に思えたけれども、それは使う事によって、年月が解決してくれるものなのなのかも知れない。

今回の旅は、ここで時間切れ。

この後は、本来の目的だった静響のハイドンを聴いて、今、丁度、東京駅へ着きました。

GO TOキャンペーンの恩恵で、日帰りよりも安く静岡に一泊出来た。

GO TOの電子クーポンが使える店が無さすぎて、ドラッグストアで髭剃りの替刃を買ったのは、何だか実生活に引き戻された気がしたけれども、止まない雨が幸いして、とてもよい旅行にもなった。

晴れた日に、三保の松原から、日本平から望む富士はさぞかし美しいに違いない。

だからこそ、全く見えなくて幸運だった。

絶景は、得てして、その土地の魅力を映さない。

旅行者が忘れてはならない哲理じゃないか。


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