能楽:源氏供養

先日、矢来能楽堂にて、金春流の円満井会の公演があり、源氏供養を観て来た。

本当に久し振りに、能楽に痺れた様な気がした。

シテが演じる紫式部が、余りに体躯の立派なのには仰け反ったのだけれども、とても好い声だったので、仕舞いには、ビジュアルの不釣り合いすら忘れて魅入った。

源氏供養とはどんな話かと言えば、源氏物語とその作者を供養する、という所か。

ドラマらしいドラマは特にない。

能楽のセオリーからすると特異な作品ともなるらしい。

けれども、大変な名曲だと思った。

或いは、単に名舞台だった、という事かも知れない。

源氏物語を創作した業で紫式部が成仏出来ぬ、という中世の倫理観は、21世紀を平然と生きている自分には、余り実感が湧く感覚ではないものの、かつてそんな供養が真剣になされていただろう事は、容易に想像されたし、そういった中世人の真心の深さとか、何でも自分達の倫理観へと引きずり込む傲慢さなどは、我々の現代的な感覚と少しも違わない様にも見えて、人間の生々しさを覚えもした。

それなのに、舞台の上にいる演者の一人として、人間らしく振る舞う者などいないのが、能楽の奇妙さであり、舞台芸能として延命した理由だとも思う。

そして今回、初めて気が付いたのは、能楽は、オペラを観るような気持ちで聴くものだとずっと思っていたのだけれども、実際には、油絵をじっと眺める様に聴くべきものなのだ、という事。

シテの能面が、表情を微動だにさせずにこちらをじっと見つめて来るのを、怖じけずに負けじとじっと見つめ返せば、次第次第に能面も心を解いて、仕方がなしに語り出す。

シテ以外の演者の顔も、皆、能面の様に作ってこそいるけれども、やはり負けじと見つめ返し続ければ、ある者の顔はいよいよ能面と化し、残る者は生な人間を顕にして、微かにたじろぐ。様にも見えて来る。

笛の音の、微妙な音程の揺らぎ、殊にロングトーンの次第にぶら下がっていく怪しさが、別段、大した意味があるとも見えないシテの舞に、哀しみ、願望、情念、悟りといった心理を映し出し、如何なる静止画よりも巧みに、時空の拡がりを一瞬間に切り取ってみせる。

静寂が、動きによって現れる。

能楽とは、必ずしもそういうフィーリングのステージではない筈だけれども、源氏供養には、そんな静けさを覚え、狂気は巧みに優美さの裏へと隠されている様に思えた。

しかし、狂おしいのは、紫式部であったか、演者であるか、作者であったか。

全ては、傍観者たる私の妄想に他なるまい。

観客に、何かしら確信があるならば、それは等しく迷信であらねばならぬ。

舞台は、作為的に作られたものであるから、そこに如何なる真実が宿ろうとも、究極的には嘘でなければ困るのだ。

矢来能楽堂に限らず、現代の能楽堂は、建物の中にあるのが普通だから、建物の中に改めて能舞台の屋根がある。

開演前に、そのあり様を改めて眺めていて、実に奇妙で滑稽だなと思った。

万事、そんな風に奇妙な取り決めの下にやっているのが能楽もであるから、似つかわしいなとも思ったけど、やっぱり、一度覚えた違和感を払拭する事は叶わなかった。

能楽は、ユネスコも認める古典芸能だ。

だから、人に依っては、能楽を通じて歴史を偲ぶ、という事態が起きても不思議はない。

博物館で三葉虫の化石を眺める様に、能舞台を眺めれば、そこにはまた、無限の美しさも宿るだろう。

中世の人々が、紫式部を引きずり出して、勝手に憐れんで供養した様に、今日という日に、世阿弥でも禅竹でも引きずり出して、勝手に愛でて理解した気になる生々しさというのも、あっても良さそうなものじゃあないか知ら。

古典であればある程に、そういった生々しさの蓄積の歴史がある訳だから、そこら辺の今様よりも、余程、コンテンポラリーとしての怪しさが充満している。

そんな迷信は、全部、舞台を観終わってから、勝手に考えた事だけれども、伝統とか継続性が孕む怪しさには、どうも単に時を経ただけではない、現代人の怪しさをも孕んでいると思われて仕方がなかった。

博物館で三葉虫の化石を眺める恍惚よりは、動物園でライオンを眺める悲哀に近い。

そんな舞台だった様に思われる。

そして、檻に入れられているのは、きっと客席の方なのだ。



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