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日本の教育、UX悪すぎん?

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こんな文言が社会にあったらなぁなんてことを考えながら、このnoteを書いています。

こんどーです。

僕は大学1年から今まで塾のチューターをやってきて500人以上の高校生と触れ合ってきました。

また、自分自身ひとりの大学生として、あるいは自分の将来に悩む者として、いままでの学校生活を振り返ってみて思ったことがあります。


「日本の、生まれてから社会に出るまでのUXがよろしくない」


このnoteでは、具体的になんでそう思ったのか、っていうことを綴っていこうと思います。

自分の学生時代のこと、学生はいままでの教育体験を思い返しながらゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。


0.とりあえず定義から入る

具体的な話に移る前に、誤解なく僕の考えを知ってもらうために、「教育」というものを定義してから話を進めようと思います。

教育の定義は色々ありますが、僕は「education」の意味に基づいた定義がいちばん本質的だなぁと考えています。

ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。(Wikipediaより)

日本の教育は「立場的に上の人が教え育ててやる」というニュアンスが強いですが、「education」は「引き出す」つまり教える側と教えられる側の立場が対等なニュアンスがあります。


ただ、社会に出るまでの「教育」に絞ると、もう一つ条件が加わるかなと。

教育業界で著名な、麹町中学校の工藤先生という方がいます。

(宿題や定期テスト、クラス担任制を麹町中学校にてやめるなどの改革を行った方です)

この書籍の方

この方は学校の目的を、「生徒が社会の中でよりよく生きていけるようにする」という風に定義しています。

これまた本質的な定義。


というわけでこのnoteにおいては教育を「生徒が社会の中でよりよく生きていけるように諸能力を引き出す」と定義して話を進めたいと思います~。


この定義を踏まえて、なぜUXが悪いと感じるのか、というとずばり「大学までの教育機関が、ほとんど社会と隔離されているから」だと思います。

どういう点で学校が隔離しているのか、というのを2点述べたいと思います。


1.評価基準

大学受験の予備校をやっているからかもしれませんが、日本はものすごく「大学受験」を重視する傾向にあります。

高校受験にしても中学受験にしても、受験先が「良い」学校かどうかの判断においては「その学校の大学受験における結果」が大きな割合を占めています。

で、じゃあ大学受験で何が見られているか、というと「学力」です。

もちろん部活やら課外活動やらもありますが、社会から一番重きが置かれる指標はほとんど「学力」一筋。

だから大学受験までの期間は成功するためにやるべきことがひたすら分かりやすくて、とりあえず勉強をしていればいい。


でも社会に出てみると全然そんなことないじゃないですか。

僕はまだガッツリコミットでのお仕事歴は3年目なのでひよっこですが、そのひよっこでも分かるくらい色んな評価指標があって複雑。

アイデア出しが強い人もいれば、まとめるのがうまい人も、引っ張るのがうまい人も、プログラミングができる人も、デザインが得意な人も、色んな方がいて、それぞれがそれぞれの強みを生かすことで社会が回っている。

学校にいるうちはこういう当たり前のようなことも、部活で多少感じるくらいで、あまり実感する機会がありません。


学校と社会で評価基準がまるで異なる、その点が隔離ポイントの1つ目です。

そしてこれにより、「大学生がすべきことが分からない」という問題が発生します。

今まで自分を縛ってきた「学力」という縛りが大学に入ることでかなり緩くなります。

そこで本来は、社会に出るための準備をした方がいいのですが、評価指標は複雑なために、何をすればいいのか分からなくなっています。

その結果「大学は人生の夏休み」なんてくだらない表現が生まれる状態に陥るわけです。


2.社会から学校へのフィードバック

2つ目は、社会から学校へのフィードバックが通らないこと。

教育の定義の「社会のなかでよりよく生きること」を考えれば、社会の在り方に合わせて教育の在り方も変わった方がいい。

けれど時代が変わり、全員がスマホを持つようになった今でも、明治時代をベースにした教育が続いています。


社会の方からすれば、「教育を経てこうなっていてほしい」という像はどんどん変わっていて、要望もあるはずなのにそれは教育に反映されません。

テクノロジーなどの最新の変化を教えてもらえないどころか、「お金」や「仕事」など人生において避けては通れない、昔から変わらないはずの数々のものも教育においてないがしろにされてきています。


この理由としては「学校の先生」という職業の特殊性にあると思います。

学校の先生のほとんどが、社会人経験を持っていません。

また、最近の先生方の事情をTwitterなどで拝見していると、学校でやらなければいけないことが多く、社会で起きていることを知るだけの余裕もほとんどない。

これは先生個人が悪いというわけではなく制度による問題が大きいと思いますが、これでは生徒は社会について学ぶ機会がありません。

(先日の神戸であった教員間のいじめに関しては個人に対して腹立たしく感じましたが)


こんな状態で「個人が社会のなかでよりよく生きる」という教育本来の目的が果たせているわけがないですよね。

そして、その割を食うのは社会に出てから出世できずに、貧困に苦しむ若者です。


3.要するに

まだまだ教育については述べたいことが山ほどあります。

例えば、「評価指標の少ない、閉じた世界観ではその内部でフラストレーションがたまりやすいのは当然だし、それがいじめの原因になる」とか。

「人間はそもそも学習能力も好奇心も強いため、今の授業形態は効率が悪い」とか。


でもひとまず僕が書きたかったのは、

・学校と社会で、主に評価指標の点で環境の差が激しすぎること

・学生が社会に出る準備を十分に行う機会が少なすぎること

の二点。

そしてこの二点において学校が社会から隔離されていること、それに伴う弊害が各所に出てしまうこと。

要するに日本の教育はUXデザインが下手くそすぎること。


こんな感じのことが書きたかったのです。


ここまで読んでいただければ、日本の教育は教育改革の「共通テストがどうたら」で解決できる問題じゃない、というのが薄っすらとでも分かっていただけるのじゃないかなぁと思っております。

僕は日本の教育を変えるために大学を作りたいのですが、長くなったのでその話はまた今度に。

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