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地理からの八艘飛び ~地理とカントの気になる関係~

1、准教授室にて

俺はドアをノックした。准教授は苦手だった。俺は歴史は好きだが地理は苦手。なのに単位の関係で、地理の授業も取らなければいけない。諸般の事情で、この准教授の単位は絶対に落とすわけにはいかない。
「入りなさい」
准教授の野太い声。自分を『白い巨塔』の財前(准)教授とでも思っているのか。ギラギラして出世欲にあふれた准教授は、苦手だった。

「…事情はわかった。実は、他の学生からも、救済措置の申請が来ている。そこでだ、地理に関するレポートを書いて提出すれば、単位を認めることにしよう」
俺は緊張した。レポートを一から書くとなると、バイトもデートの時間も削られる。これ以上睡眠時間を削るのはきつい。頭の中でto doのアプリを起動した俺の心中を見透かしたように、准教授はお題を出してきた。
「レポートのテーマは、『地理とカントの関係』だ」

2、地理はなんのために学ぶのか?

自室に戻る自転車の上で、俺はぐるぐると考えていた。
「地理とカント…か。歴史はわかるよ。『過去』のことだから。過去と現在と未来はつながっているよな。過去を学べば現在がわかる。現在がわかれば未来を予測できる。学ぶ意味があると思う。でも地理は、ネットでいくらでも情報が出てくる。調べればわかることを、わざわざ学んで、何の意味がある? どこでもドアでもあって一つずつ実地研修するならわかるけど、ドラえもんいないし。高校の先生は『ネットに頼るな、とにかく覚えろ』だけで苦痛だったし…。というか、そもそもカントって哲学者だろ? 地理と何の関係があるんだ…」
俺は自室の机の前に座ると、早速にネットで検索した。「地理」「カント」のキーワードで検索をかける。彼女とのデート時間を捻出するために、一刻も早く終わらせる。

3、カントの略歴

まず俺は「カント」をWikipediaで調べた。当たり前だが、まずどんな人かを知ることで、レポートが書きやすくなる。木村紺の漫画なら、だいたい1人は戦闘力の高い女性が出てくるのと同じだ(『巨娘』は、彼女の影響で読み始めた。自分だけだと絶対に手に取らない部類の漫画だったけど…)

略歴が出てきた。俺は軽く目を通す。このような内容だった。

イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。彼が定めた超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。

…って、バリバリの哲学者じゃないか。地理の何の関係があるんだ? Wikiの記載を読み進めていくと、あったあった。これか?

カントはケーニヒスベルク大学で1765年から自然地理学の講義を担当し、地理学に科学的地位を与えた。カントは地理学と歴史学の違いを、場所的記述を行うのが地理学で、時間的記述を行うのが歴史学であるとした。この見解は後世の地理学者の常識となった。

…ふーん? 大学で自然地理学の講義を担当? 地理学に科学的地位を与えた? ということは、それまでは地理は科学的ではなかったということか? というか、カントは哲学者で、哲学の講義ばかりしているのかと思った。地理学の講義もしているとは意外だ。

しかし残念ながら、Wikiではこれ以上のことはうまくつかめなかった。よし、ここはnoteだ。noteで検索してみよう。noteならば優れたクリエイターがたくさんいるので、誰か一人くらい地理とカントについて書いているかもしれない。そう思って検索してみると、ビンゴだ、そのものズバリの記事にあたった。

nuricoさんのこの記事によると、カントは地理の重要性を説いていたという。

カントは生地ドイツのケーニヒスベルク大学で、地理学の講義を48回おこなっている。論理学54回、形而上学49回、道徳哲学28回、人間学24回、理論物理学20回と比較すると、カントが地理学の重要性をいかに訴えていたか。

地理学という科学の復興は・・・それなしでは一切の学問が単に手間仕事になってしまうような、知識の統一を創造するであろう。イマヌエル・カント

…めっちゃ地理を推してるやん、カント先生。哲学の講義より地理学の講義の方が多いとは意外だった。

4、地理はなんのために学ぶのか?の答え

…カントが地理推し、ということはよくわかった。しかし、俺のタスクはレポートを書くことだ。「カントは地理を重要視していました!以上!」だけでは、いくらなんでも認められないだろう。
悩む俺の視線の先に、彼女のレポートのコピーが飛び込んできた。彼女は俺と逆だ。地理が好きで歴史は苦手。そんな彼女が「歴史を学ぶ意義~堺屋太一『歴史からの発想』を読んで」というレポートを書いていた。俺はそのコピーをもらっていた。…これがヒントになるかもしれない。地理も歴史も「この世の中をとらえる」ということでは共通している。それなら、歴史のところを地理と置き換えてみてはどうだろう。もちろん、置き換えられるところと置き換えられないところが出てくるだろう。それらもひっくるめて、地理を学ぶ意義を考えてみてはどうだろうか。

『歴史からの発想』の「はじめに」のところには、歴史は繰り返すか否か、がまず書いてあるという。
「歴史は繰り返すか、繰り返さないか。歴史は繰り返すといえる要素もあれば、絶対に繰り返さない要素もある」

俺はこれを置き換える。歴史→地理に。
「地理は繰り返すか、繰り返さないか。地理は繰り返すといえる要素もあれば、絶対に繰り返さない要素もある」
…うん、言えなくはない。例えば海沿いの地域だと、海水浴で賑わいやすいが、海水浴ができない地域もあるよな。

「技術や人口、資源に関する変化は、不可逆的だ。その意味で、歴史は段階的に発展するのであって、繰り返すものではない」
「歴史は繰り返す、というのは、異なる状況の中で相似た事件が起こる、ということに過ぎず、その類似性の範囲内で参考になる、という意味だ」
「技術や人口、資源の状況は変化しても、もう一つの歴史の要素である人間の本性は、それほど急激に変わらない。二本足で歩き、食事と睡眠が欠かせない。強欲で怠惰、恐怖に弱い、無鉄砲、自分の利益を正義と信じやすく、他人の評判を気にする反面、嫉妬深い」

俺はこれも置き換えてみる。歴史→地理に。合わない部分は修正加筆する。
「技術や人口、資源に関する変化は、不可逆的だ。その意味で、地域は段階的に発展、あるいは衰退するのであって、繰り返すものではない」
「地理は繰り返す、というのは、同じ地形の中で相似た地域ができる、あるいは、異なる地形の中で相似た地域ができる、ということに過ぎず、その類似性の範囲内で参考になる、という意味だ」
「技術や人口、資源の状況は変化しても、もう一つの地理の要素である地形は、それほど急激に変わらない。海沿いの地域は海沿いであり、山の中にある地域は山の中にある」

…ちょっと無理はあるが、言えなくはないか。地形は、ほとんど変わらない。しかしその上で生活する人間、あるいは社会は、徐々に変わっていく。変わらない部分と変わる部分がある。相似た地域もできる。同じ地形なのに相似た地域ができることもあれば、違う特色を持った地域もできる。違う地形なのに、相似た地域ができることもあれば、やはり違うこともある。それらの理由を考えることこそが、地理学とも言えないだろうか。

次に行ってみよう。
「世の中の事象の動きを学び人間性を知ろうとする上で、歴史には大きな利点がある。そこには時代の大きな流れが明確に描かれていることだ」
「現実社会では、情報は常に混乱している。嘘は嘘、誤報は誤報だ。歴史では、世の本流だけが、真に重要なものとして書き出されている」
「しかし、歴史が『短縮』され『単純化』されている便利が、しばしば読者に重要な誤解を与えることもある。その一つが、短縮され単純化されているがゆえに、歴史の中に生きた人物の悩みと迷いを十分に伝えないこと。もう一つが、読者は事件の結末を知っているが、歴史の中に生きた人々はそれを知らなかったということである」
「歴史の中で繰り返された人間性を知るためには、歴史に生きた人々と同じ立場に立って、注意深く読むことが大事だ」

さあ、必殺置き換えでアタックだぜ! 俺のテンションはいつしか高まっていた。
「世の中の事象の動きを学び人間性を知ろうとする上で、地理には大きな利点がある。そこにはその地域に関する大きな流れが明確に描かれていることだ」
「現実社会では、情報は常に混乱している。嘘は嘘、誤報は誤報だ。地理では、その地域の情報の本流だけが、真に重要なものとして書き出されている」
「しかし、地理が『短縮』され『単純化』されている便利が、しばしば読者に重要な誤解を与えることもある。その一つが、短縮され単純化されているがゆえに、その地域の中に生きている人物の悩みと迷いを十分に伝えないこと。もう一つが、読者はその地域がどんな地域かを客観的に知っているが、地域の中に生きた人々はその地域がどんな地域なのかを客観的にはなかなかとらえられないということである」
「その地域の中で繰り返される人間性を知るためには、その地域に生きる人々と同じ立場に立って、注意深く読むことが大事だ」

…こんな感じだろうか。俺は高校までの地理の授業を思い出していた。

どこそこにはこういう特産品がある。小麦の生産は〇〇が一番だ。この地域の地名は〇〇だ。そんな情報の羅列。それをひたすら覚える。辛かった。
しかし、こうして歴史と比較して地理を学ぶ意義を考えてみると、その地域の情報の本流をずばり知れること、しかし「短縮」され「単純化」されているがゆえに、無味乾燥なものになっていること、その地域の中だけを見ていては、どんな地域なのかわからないこと、その地域に生きる人々と同じ立場に立って考えてみること、などが浮かび上がってくる。
…確かに、特産品があるなら、その特産品はどうやって生まれたのか、どんな人が作っているのか、どのように地域ブランドとして成り立っていったのか、その背景があるだろう。小麦の生産には、その理由がある。なぜ食料が必要なのか、どれだけの人口を養っているのか、他の地域の小麦とどう違うのか。地名もそうだ。なぜその地名になったのか。移り変わりは? どれだけの知名度があるのか。その地名に対する、その地域に生きる人の感情は?…
「短縮」と「単純化」した用語を、そのまま用語だけで覚えるのはいかにも辛い。しかし、その用語の背景にあることをたどっていくと、その地域の存在意義、いうなれば「哲学的意義」にまで踏み込めるのではないか…。これがカントにつながっていくだろうか?  よっしゃ、攻めていくぜ!

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「はじめに」の文章を置き換えた俺は、意外と地理に興味を覚えて、彼女のレポートのページをめくっていった…。

5、提出後にて

…俺は准教授室を出ると、自転車をかっ飛ばして彼女との約束の場所に向かった。かなり遅刻か。時間にルーズな彼女だが、今日は俺より早く来て待っていた。
「…遅いよ!」
「ごめんごめん、ちょっと地理関係のレポートに手間取っててさ」
「地理? どんなレポート? 私にも見せてよ!」
「(こいつ、地理好きだからな…)いいよ。でもその代わり…面白い地理の漫画、紹介してくれないか?

6、まとめにかえて

さて、彼は「地理男」への道を歩むのでしょうか? それは彼次第といったところですね。
この文章は、私が先日投稿した「歴史からの八艘飛び ~堺屋太一先生追悼~」という記事を元ネタにして、歴史を地理に置き換えて書いてみたものです。元記事はこちら↓。

この記事でも書かせていただきましたが、少しでも興味を持たれた方は、堺屋太一さんの『歴史からの発想』をぜひお読みください。『停滞と拘束からいかに脱するか』という副題の通り、停滞・拘束気味の方は、ぜひ歴史と合わせて地理も学んで、八艘飛びで抜け出しましょう。時間だけでなく空間までもとらえたら、タイムマシンに乗った源義経のように、時空間を自在に八艘飛びすることもできるかもしれませんよ(もう一度貼り付けます↓)!

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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