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歴史で食っていく2 ~歴史論争を食材にして~

1、井沢VS呉座論争

『逆説の日本史』シリーズで有名な井沢元彦さん。『応仁の乱』でベストセラーを飛ばした呉座勇一さん。このお二人が、歴史について論争をされています。

そもそもは、「アゴラ 言論プラットフォーム」上で、百田直樹さんの『日本国紀』について、八幡和郎さんが評論したことから、色々な論客を巻き込んで、論争が続いています(2018年11月17日付)↓。

※百田尚樹さんの『日本国紀』はこちら。2018年11月12日発売です↓。

呉座勇一さんは、『日本国紀』監修者の久野潤さんが反論を提起したことに対して、応答されました(2019年1月10日付)↓。

徐々に論争はヒートアップしていき、感情的と思われるやり取りも生まれます。第三者の岩井秀一郎さんが論争を評して「論争と言えるのだろうか」とコメントするほどに…(2019年3月28日付)↓。

このような流れを受けて、「アゴラ」上では、八幡和郎さんと呉座勇一さんの歴史論争について、編集部が「停戦」を呼びかける事態にまで発展していきます(2019年3月29日付)↓。

しかしそれ以後も、井沢元彦さんと呉座勇一さんの歴史論争は続き、呉座さんから「俗流歴史本」の問題点が指摘されました(2019年6月13日付)↓。

この呉座さんの記事の最後の部分のみ、一部を引用してみます↓。

「俗流歴史本」のメッセージはみな同じだ。歴史学の研究手法に則って長年コツコツ研究しなくても、優れた作家が鋭い直感や推理力を働かせれば歴史の本質を捉えることができる。そして、その優れた作家である私が執筆した優れた歴史本さえ読めば、歴史の真実が分かるから、「専門バカ」の歴史学者が書いた本など読む必要はない。だから参考文献リストは不要だ——。
そういう本を読めば気持ち良くなれるかもしれないが、自身の成長につながるとは私には思えない。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむことと、歴史を学ぶこととは、明確に区別すべきである。

◆想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむこと。

◆歴史を学ぶこと。

この2つは、明確に区別すべきである、と呉座さんは主張しています。

今回の一連の論争の流れをすべて追うことは、このnote記事上ではできません。しかし、あえて誤解を恐れずに単純化してしまうと、論争の対立軸としては、以下のように示すことができると思います。

◆井沢さん(歴史作家)→→呉座さん(歴史学者)「専門バカ」と批判

 ※史料至上主義に陥ってしまっており、史料を絶対視しすぎている。

◆呉座さん(歴史学者)→→井沢さん(歴史作家)「俗流歴史」と批判

 ※史料を軽視してロマンに浸っており、直感や推理力に頼っている。

このように単純化した場合、私には、これまでに日本で行われてきた、歴史についてのいくつかの論争が思い浮かびました。

実は、このような歴史論争は、いまに始まったことではないのです。「歴史論争の歴史」を、追ってみたいと思います。

2、歴史論争の歴史

まず、明治の文豪、売れっ子の小説家であった、森鴎外の作品より。『歴史其儘と歴史離れ』↓。

この著書で森鴎外は、「山椒大夫」の執筆について語りながら、鴎外自身の歴史小説の執筆作法を表明しています。「書き手の主観に捕らわれることなく、歴史そのものを尊重する」ことを、森鴎外は目指しました。しかしそのあまりに「余計に束縛や重圧に苦しんだ」ことを告白しています。さらに「そこからの脱出がまだ充分ではない」ことを書いているのです。

次に、小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義經也』。いわゆる「ジンギスカン=源義経説」を扱っています。この本は、大正13年(1924年)に発行され、大ベストセラーとなりました。しかしこの説は、言語学者の金田一京助、歴史学者の中島利一郎たちに酷評されます。曰く「小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述されるべきものである」「この種の論文は『信仰』に過ぎない」「粗忽屋、珍説、滑稽、児戯に等しい」などです。

どこか、冒頭の歴史論争に通ずるところはないでしょうか?

◆小谷部全一郎(歴史作家)→→(歴史学者)「専門バカ」と批判

 ※史料至上主義に陥ってしまっており、史料を絶対視しすぎている。

◆中島利一郎(歴史学者)→→(歴史作家)「俗流歴史」と批判

 ※史料を軽視してロマンに浸っており、直感や推理力に頼っている。

※補足すると、「判官びいき」も相まって室町時代の頃から「源義経不死伝説」は生まれており、江戸時代の林羅山や新井白石たちは、真剣に歴史問題として討議していたとのことです。

最後に、最近の事例ですが、1990年代後半からの「新しい歴史教科書をつくる会」の一連の運動、西尾幹二さんの『国民の歴史』の執筆、教科書採択とそれをめぐる騒動、なども記憶に新しいところです。ここでも、賛成派と反対派、双方の分離・分裂などもからんで、様々な論争が行われました↓。

歴史は、通説と研究、事実と虚構、教育と政治(外交)などが入り組んでいるため、非常に複雑な問題をはらんでいます。

※もちろん、ここに挙げた論争が似ていたとしても、すべて同じ対立軸で説明できるわけもなく、また、その時々の政治や経済の状況、取り上げられる論題によって異なることも、いささか言い訳ながら付記しておきます。

3、「歴史で食っていく」視点より

ここで視点を変えて、これらの論争により何が生じているのか、その効果を経済的な側面から考えていきます。

私は先日、「歴史で食っていく」というnote記事を書きました↓。

この記事の中では、いくつかの「歴史で食っている職業」の例を、いくつか挙げています。もう一度、挙げてみます↓。

「研究・教育系」

①歴史研究者(学者) ②歴史の教員 ③予備校講師 ④学習塾講師

「クリエイター系」

⑤歴史小説家(作家) ⑥その他クリエイター系(歴史漫画家など)

今回の「井沢VS呉座論争」は、①歴史学者VS⑤歴史作家との論争であるとも言えます。そこに、⑥クリエイター系のひとつである「出版社」「ネット論壇」「歴史評論家」などが加わっている構図です。

彼らは、どこで「食っている」のでしょうか。

①歴史学者は、大学の職員であれば「大学の給料」(研究に対しては研究費)。著書を出せば「印税」を得ることができます。

⑤歴史作家は、著書を出しての「印税」、すなわち著書の売れ行きがものを言う世界です。

⑥出版社などは、本が売れれば売れるほど利益が出ます。ネット論壇や歴史評論家は、世に知らせる機能として、それを補助している面があります。

歴史論争の歴史を見た時に、何度も「ベストセラー」という言葉が出てきました。森鴎外は、売れっ子の小説家でした。小谷部全一郎の本は、大正~昭和の世界大戦の背景もあって、ベストセラーとなります。『国民の歴史』は論議をかもした本、売れに売れています。『日本国紀』も何十万部も売れています。ちなみに、呉座勇一さんの『応仁の乱』も売れています。

誤解を防ぐために先に述べますが、私は売れることに否定的ではなく、むしろ肯定的です。お金を出してまで読む価値があると思う人がいるからこそ、売れるのです。その考えを前提にすれば、誰からも一顧だにされない書籍よりも、売れる書籍の方が価値がある、とも言えます。

ただ、⑥出版社などが、数々の論争によって広告効果を生まれさせ、結果として利益を上げている面もある、ということです。

ご本人たちは真剣に論争を繰り広げているとしても、著作の売り上げのことなど全く考えていないとしてもです。その周辺では多大な広告効果が生まれて、第三者が利益を上げている一面もあるのではないでしょうか? 論争を煽っている人はいないのでしょうか? 論争を記事にすることで、書籍や週刊誌が売れているのではないでしょうか?

一方で、それぞれの立場の方が、それぞれどの読者層を想定して論陣を張っているか、という問題もあります。

①歴史学者は、一般の読者層も想定していますが、歴史学会や歴史の研究者も重要視しているでしょう。一方で、⑤歴史作家は、歴史学会や歴史の研究者を相手にしているというよりは、一般の読者層を主にターゲットにしていると言えます。

歴史学者は好き勝手に「史料実証」も無しに推測でものを言えない。そんなことをしたら、歴史学会でとことん批判されるからです。しかし「論理と思考の積み重ね」がある分、堅実です。一方で歴史作家は「直感や推理力」を働かせてものが言える反面、説得力がないと、空想だ、ロマンだ、児戯に等しい、と斬り捨てられることもある。しかし説得力がなくても、読者を心地よく酔わせることができれば、売れることもあります。

それぞれの意見は、それぞれの立場からの意見。歴史についての情報を、読者層がどう受け取るのか、そこが問題となってきます。

4、「歴史で食わせている」視点より

ここまで、このnote記事では、歴史論争の事例を切り口として、歴史論争の歴史、「歴史で食っていく」視点から考えてみました。

要素が多すぎて、なかなかまとめにくい問題ですが、最後に(無理やり)まとめていきます。「歴史で食わせている」視点、つまり歴史情報の受け手、読者、消費者の視点から考えてみようと思います。

いささか唐突ですが、映画『キングダム』を観ましたか? マンガは3000万部以上も売れている大ベストセラーです。興行収入50億円越えの映画です↓。

秦の始皇帝と、それをとりまく群像の物語。圧倒的なスケール。もちろん、映画を見ている人は、これが「歴史其儘(そのまま)」であるとは、誰も思っていないでしょう。長澤まさみさんのような方が、本当に陣頭に立って突撃しているとは思っていない。けれど、私たちは楽しんで観ている。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しんでいる。

結局、歴史情報をどうとらえるかは、私たち受け手の一人ひとりの考えです。歴史事実など知ったこっちゃない、ただ楽しければいい。これも一つの考え。いや、たとえフィクションとしても、事実に則っていなければダメ、これも一つの考え。ノンフィクションはノンフィクション、フィクションはフィクションとしてしっかり分ける、こういう考えもあるでしょう。NHKの大河ドラマなどを思い浮かべていただければと思います。

問題は、ノンフィクション(事実)と銘打ったフィクション(虚構)である場合です。あからさまな虚構を事実とうたってしまう。これは嘘ですね。受け手のミスチョイスを誘う。様々な論争を呼んでいて、様々な切り口と解釈ができる問題を、唯一の解釈だけを挙げて「絶対的な正答」として押し付ける。これは問題があると私は思います。

ただし、繰り返しになりますが、これは受け手の問題でもあるのです。

コロリと騙されるかどうか、騙されたことさえ気づかないのか、騙された上で楽しむのか怒るのか、受け手の「歴史情報の咀嚼力」、言い方を変えれば「歴史情報解釈リテラシー」によります。

歴史は、過去のことを扱います。それを現在で取り上げるから、そもそも構造的に無理な部分があるのです。現在のことでさえ、「デマ」や「フェイクニュース」が飛び交っています。自分のことでさえ、自分が全部把握しているとは限りません。ましてや過去のことです。他人のことです。難しいのです。「死人に口なし」というではありませんか。もし仮に本人の遺書があったとしても、もしかしたら強要して書かされたかもしれません。「事実は墓場まで持っていく」と、嘘を書いているかもしれません。そもそも、本人が正確に認識しているとも限りません。

真相はまさに、芥川龍之介の言う「藪の中」なのです↓。

源義経が本当にジンギスカンになったかどうかは、本人しかわからないことであり、絶対に0パーセントとも言い切れない部分があります。そこを、「歴史のロマン」と表現する人もいます。そこに、歴史の面白さも、歴史の難しさもあるように思います。

そのような「限界」を踏まえつつ、真摯にできる限り情報を集めて分析して「解釈」していく。情報を頭から否定するのではなく、謙虚に受け止めて、常に認識をアップデートしていく。これが、歴史の情報の「受け手」に必須の態度であり、「歴史で食わせている」者が、最低限持つべき視点ではないでしょうか。

終わりに漫画を1つご紹介します。「ジンギスカン=源義経説」を、そのものズバリで扱った漫画、瀬下猛さんの『ハーン -草と鉄と羊-』です。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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