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1、感受性とは

感受性=外的な刺激や印象を受け入れる能力。

弱すぎると「鈍感」。強すぎると「敏感」。弱すぎると「あいつは人の気持ちがわかっちゃいない」。強すぎると「あいつは人の気持ちばかり考えて自分がない」。誠にやっかいなものです。感受性とは。

この記事では、感受性と、その感受性について喝破した、ある詩人をご紹介します。ガイダンスとしては、こちらのページがとてもよくまとまっていましたので、リンクを貼りました↓。

2、『自分の感受性くらい』

この見出しでピンと来た方は、その詩を最初に読んだ時に感じた、ご自分の感受性を再確認していただければと思います。ピンと来ない方は、それこそご自分の感受性で味わうチャンスです。一つの詩を引用します。いきますよ。タイトルはずばり、『自分の感受性くらい』

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

引用は以上です。詩集「自分の感受性くらい」より。

…作者は容赦がありませんね。「自分の感受性くらい自分で守れ」。このように突き放しておいて、でも最後はフォローを入れてくれるのかな、と思いきや、さらに谷底に突き落とします。「ばかものよ」。ドラマの金八先生よりも鋭い(実際、ドラマの金八先生では、この作者の詩が何度か引用されます)。何という破壊力でしょうか! 

しかし、よくよく考えてみると、破壊力と言うより、鮮やかな指摘力と言った方がいいかもしれません。確かに、自分の感受性は、自分で守るしかないんです。他人のせいにはできないんです。なぜなら、自分の感受性だから。他人の感受性ではないから。外からの刺激や印象を、どう受け入れるかは、他人にはうかがいしれない部分です。だから、自分で守るしかないんです。〇〇のせいにはできないんです。

情報の洪水ともいうべき現代社会。note記事などで、いくらでも自分の意見や感想が発信できる現代社会。情報を取捨選択するのも自分なら、受け取った情報=外からの刺激物をどう受け入れるか、納得するか反発するか昇華するかそのまま受け入れるかは、本当に自分次第です。

ショッキングなニュースは日常茶飯事、見なければ良かったツイートはたくさんあり、あえて刺激的な情報を流す人は無数にいます。「フェイクニュース」、つまり嘘も混じっているかもしれません。客観を装った、主観的な情報だらけ。その中で、せめて自分が接した、氷山の一角の情報には、自分なりに向かい合わなければいけない。

「知らぬが仏」と言います。知らなければ悩むことはありません。「嘘も方便」と言います。残酷な真実よりも、嘘のほうがいいこともあるでしょう。

『感受性の守り方』と題したこのnote記事を目にするあなたは、人よりも情報に対して真摯で、「感受性が強い」方かもしれません。「感受性に悩んでいる方」かもしれません。そのような方には誠に恐縮ですが、この詩に書かれている通り、「自分の感受性くらい自分で守れ」としか言いようがないのです。作者のように、「ばかものよ」まで言い放つ度胸は、私にはありませんが…。

この詩に関しては、ひらやまさんのnote記事でも触れられていましたので、下記にリンクを貼ります↓。

3、現代詩の長女

そろそろ、この詩の作者を紹介しましょうか。

茨木のり子さん。茨城じゃなくて茨木です。

名前を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。『わたしが一番きれいだったとき』という詩が、国語の教科書によく載っています。もしかしたら『自分の感受性くらい』も、教科書に載っていたかもしれません。私も勉強不足でして、この方については、そう言えば教科書で載っていたような…くらいの印象しかありませんでした。詩についてはこちら↓。

少し反戦チックな解釈もできる詩なので、そういう主張をされる方なのかな、と早合点する人もいる(私もそうでした)でしょうが、さにあらず。

茨木のり子さんは『現代詩の長女』と評されて、有名な詩人、谷川俊太郎さんとほぼ同年代で活躍されてきた方だそうです。ある一定の立場だけで語れる方ではない。名作『二十億光年の孤独』だけで谷川さんが語れるわけではないように、ある1つの詩だけで、茨木のり子さんのすべてが表現されているわけではないのです(なお『二十億光年の孤独』はこちらから↓)。

この茨木のり子さんの、簡単なプロフィールをご紹介します。

1926年(大正15年)生まれ、2006年(平成18年)死去。ちょうど20歳くらいの「一番きれいだったとき」に終戦を迎えます。1949年(昭和24年)にお医者さんと結婚し、20代後半の、1953年(昭和28年)に『櫂』(かい)という同人誌を創刊します。この同人誌では、谷川俊太郎さんたちの戦後を代表する詩人が活躍しました。しかし1975年(昭和50年)、50歳頃に夫と死別。1991年(平成3年)には読売文学賞を受賞し、2006年にくも膜下出血で約80年の生涯を終えられました。

20歳で終戦、50歳で夫と死別、80歳で死去。戦後の日本の良いところも悪いところも、彼女は自分の「感受性」で汲み取って、詩に表現してきました。彼女は、晩年、一人暮らしをしていました。くも膜下出血で亡くなられているのを、知人が見つけたそうです。生前に書いておいたであろう「遺書」も見つかりました。少し長いですが、彼女が遺した遺書を引用します。

『このたび私○○○○年○月○日、○○にてこの世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔意の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返礼の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬、思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくれましたことか・・・。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

○○○○年○月○日』

凛として生きた、生き抜いた、という表現がしっくりくるように思います。

4、天命を知る

いかがでしたでしょうか。ちょっと興味の出てきた方は、まずは本屋で彼女の詩集を手に取ってみられてはどうでしょう↓?

この記事の締めとしまして、『知命』という彼女の詩を引用させていただきます。なお、知命とは、50歳の別の呼び方です。詩集『自分の感受性くらい』に収録された詩です。

他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏で切れいと進言するが
肯(がえん)じない
仕方なく手伝う もそもそと

生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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