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無題

よく、アート展へ行くと、絵画作品が掲げられた壁面の脇にポップが貼られていて、そこに「無題」というタイトルが添えられているのを見かけます。
わたしは学生時代にグラフィックを学んでいたので、美術館やギャラリーに出かけることもしょっちゅう。わりと身近にそういうシーンに触れてきました。しかし、この「無題」というタイトルだけは、いつも不思議な気持ちで眺めていたんです。無題ってなんやねん、って。

作品にもよるでしょうが、一般的には「見る者に解釈を委ねる」って意味があるとされていますね。抽象画などは、下手にタイトルを付けたら、それに引っ張られて作品を深読みしちゃうなんてことがあります。作家の心情としては、まずは変な先入観を持たず、定義付けをせず、作品を無心で見てほしいという思いがあるのかもしれません。

ちなみに、30数年経った今でも親交のある、当時は教務、現在は画家として活動されている先生にも聞いたことがあります。すると先生は、「たぶん、言葉に置き換えられなかったからじゃないかな」と、面白い答えを返してくださいました。うーん、なるほど。さすがプロのお言葉。こう見てほしい、ああ見てほしいといった打算や目論みを一切介在させずに作りきったら、あらためてタイトルなんて付けてイメージを固着させちゃうのもねぇ、と先生。創作の現場では、そういう気分になる時もあるんでしょうな。言語化しにくいものは、絵にしろインスタレーションにしろ音楽にしろ、あると思います。

もう一つは、実に穿った見方ではありますが、タイトルを無題とすることで、その作品に意味を持たせる目的があったりして。言い方は悪いですが、衒い、ですね。とてもシンプルな着想と表現技法の作品、あるいは本能的に筆を滑らせて描いた作品に、無理やり名前を与えても深みがない。作家の思惑がバレた瞬間に一気にチープになってしまう。そんな時に無題とすることで、作品を読み解く手掛かりを消し去るのです。逆につまんない作品が、一気に解釈の可能性を拡げ、魅力を2割3割増にすることもあるでしょう。

記事やコラムを書く時に、さすがにタイトルを「無題」にするのは憚られます。最初にこういうことを書くんだといった強い動機付けがあれば、それをタイトルにしちゃえば、そこを軸に書き進めていけばいい。しっくりいくと思います。でも、書いているうちに物事が整理されていって、最後は思いも寄らない結論になったりすると、はたと困ってしまう。わたしは、このタイトル付けや、タラシや見出しの類いがあんまり得意じゃなくて。本文の内容をダイジェスト的にまとめるとか、企画書の頭書きみたいなものばかり考えついちゃう。

雑誌だと、デザイナーさんにタイポグラフィにしてもらったり、短めの文言なら書家に頼んで毛筆で書いてもらったり、イラストレーターさんに単行本の装丁のようなあしらいをお願いしたり、アートディレクションで視覚的にインパクトを出すなんてこともできたんですが。ネットメディアの場合はそうもいきません。近年は、ネット記事をオファーされる機会が増え、ますますこのタイトル付けに頭を悩ませることが多くなりました。基本中の基本でしょうが、検索した際に引っかかりやすくなるように関連ワードを入れるなど、SEO対策にも意を注がねばならない。かといって冗長だと検索エンジンに正しく評価してもらえない。当然ながらタイトルそのものの強さもなければならない。うーん難易度高い。

かつての同僚に、こういったタイトル付けや見出しの立て方がめっぽう巧い編集者がいました。彼女は、短い文の中に、ちゃんと伝えるべきメッセージを込めて、読者がナニナニ?とページを繰りたくなるフレーズを塗し、それでいて説明臭くせずに、きちんとインパクトを持たせた表現をします。そういうのが天才的に得意な人っているんですよね。電車の中吊り広告で見つけたら、その雑誌を買いたくなるような。

たぶんですが、彼女にはワインのソムリエのように、醸造家とは別の目線で対象を味わい、言葉にする、第三者の視座が備わっているんじゃないかなぁ。短い言葉で想像させるのはもちろんなんですが、ひと塊り、ひとつなぎの読み物から発想を飛ばして、まったく別のジャンルのキャッチーな言葉をポーンっと据えてみて、比喩的にそのテーマに収束させるとか。作品を読み解く手掛かり、手立てをちょっとだけ残しておいて解釈の可能性を拡げる言葉を、本文を書いた人格とは別の人になりきって捻り出すみたいな。なんか、そのへんにヒントがありそうな気がします。

でも、よくよく考えてみればそれこそが編集者の仕事。作家として、無題としか付けようがないほどに袋小路に追い込まれたら、「作品を見る者」になってその記事を解釈しちゃうのも一つの手。読んでほしい読者になりきって考えてみてもいいかもです。


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