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競輪の野次について考える

競輪の心無い野次について、どうしてあんなにひどいのですか?というのは、わりと前から言われていますが、どうしてあんなにひどいのか?
せっかく競輪を楽しみに見に行っても、汚い野次でうんざりしてしまう…。そんなビギナーの方も少なからずいらっしゃるのでは?3月に行われた金亀杯争覇戦で松浦悠士選手が野次(誹謗中傷)についてTweetしたことは、ニュースサイトでも取り上げられました。

Yahoo知恵袋にも、どうしてそういうことをするのか?⇒ 程度の問題・色々な人が居る、という似たような質疑が複数載っています。

野次は選手に届くだけでなく、周囲の人も行き渡っています。
心無い野次、嫌だなと思いながら競輪を見るより、活気のある声援で溢れた会場で盛り上がりたい!
そこで今回は、古くから競輪を知っている人と話していて、なるほどなと思ったことがあったので書いてみたいと思います。

野次の原動力について考える

1948年(昭和23年)11月に小倉で始まった競輪。ルール改正を繰り返しながら、レース形態も時代と共に大きく変わってきました。選手特性もその時代・時代で様々。公営競技と言えど賭け事であるため、観客の多くはお金を賭けてレースを見ます。自分の財布の中身をそのレースにかけるわけですから、感動をありがとう…では済まない場合もあるかもしれません。そこは、少々熱くなりますね。そこまではわかります。しかし、その先です。

競輪の「そもそも」から考えてみる

昭和40年代から競輪を知っている方と野次についてお話する機会がありました。その中で興味深かったのは、そもそも車券の買い方が今と違うのではないか?という考察です。競輪の野次がどの公営競技よりも酷いと言われる理由、その原因の一つとして思い浮かぶのは、競輪は、公営競技で唯一「動力が人力」であるということではないでしょうか?そして、初心者にはわかりづらい「ライン」の存在。

ラインに働くもの

競輪を一番難しくしているのが以前にも書きましたが「ライン」というやつです。これには、人情、仁義、男気…そういった勝負にかける勝ち負け以外の人生ドラマがあったりします。

観客としては

観客としては「ライン」を読むというのが楽しみだったりもします。
選手への思い入れも今とは違っていたかもしれないというのです。かつての競輪選手は、俺がこうと決めたらこれで行く!というような個性を極めたものを持っている人が多かったようです。その選手の姿は、漫画などでも描かれています。

第1巻の内容紹介: 新進気鋭の競輪レーサー・立花ワタルの活躍を描く。この肉体が、このマシンが俺の命だ!! 血と汗にまみれ、先行一本で輪界の頂点を目指す!立花ワタルが風となってバンクを疾走する激闘のサイクルロマン!!

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自分は映画化されたこの作品、賀来千香子さんのこれを見て「おお」と、思った次第です。競輪選手、という職業…。周囲の理解も今と違っていたのかもしれません…。

こんな時代の競輪といったら、野次もやはりすごかったようです。しかし、その期待を背負って戦っている以上、下手なレースはできない!その熱量は今想像するより遥かに大きかったのかもしれません。
こうして、ラインを読む、選手特性を見極める、そこからレース展開を考える(熱いドラマ展開を考える!)、というのが、競輪の楽しさであったのではないでしょうか?それだけ、気持ちも入れ込んでいたのではないかと思います。

選手も変わってきた?

選手も変わってきたのでは?というのがもう一つの視点です。それが、「ライン」に対する選手の思い入れの相違です。「ライン」が形成されるようになったのは、中野浩一さんに対抗するためだったと言われています。こうして、ズバ抜けた選手の登場によってルールにはない戦法が自然と形成されたわけです。そして、その「ライン」が選手間の絆を生み、競輪のドラマをより色濃く演出してくれたのだと思います。そこに観客も熱狂した!
そして、その競輪にとってとても大切なエッセンスであった「ライン」というものが、いつの間にか縦社会の忖度になってきてしまった(推論です)。縦社会の威力だけで若手を使ういわゆる「使い捨て」の目にあった選手からすれば「なんでラインのために走らないといけないんだ?」となるでしょう…。逆に言うと、仕事に忠実なベテラン勢からすれば「どうした?」ということが多くなっているかもしれません。こうしたラインに対する思い入れの相違も、際立った選手特性が見られない要因に繋がっているのではないでしょうか?

ラインが生み出したものは、こうした悪い側面ばかりでもなくって、なるほど、おもしろい!という話もたくさんあるんですよ!…その話はまた別の回でお話したいと思います。

慣習の形骸化が悪癖に?

そういうわけで、一昔前までの競輪への思い入れは、走る方も見る方も今と少し違っていたのでは?というのが今回の考察です。つまり、そもそもの成り立ちを知らず、はじめからそれが存在している世界に入っていくと、それはそもそも「あるものだ」となる。「ライン」あって然るべき、「仕事」して然るべき、野次は汚くて然るべき。
野次について言うなら、みんなが言っているから言っていいんだと思う集団心理もあるでしょう。それが形骸化して悪癖となって残ってしまったのが現状ではないでしょうか?

応援してますから!

ひどい野次に心を痛めている人は、野次を飛ばしている人数より多くいるはずです。誰もが大声を出せるわけではありません。声にならない声援を送っている人は野次よりも多いです!(きっと!)。