未発売映画劇場「ミラクル・ポイント 霸王卸甲」

まずはこちらをお読みいただきたい。

  映画つれづれ「WHO IS 衛斯理 ?」

  映画つれづれ「WHO IS 衛斯理 ? 〔續集〕」

中国語圏のSF・伝奇小説の大巨匠・ 倪匡(二ー・クワン)の人気シリーズ「衛斯理系列(ウェスリー・シリーズ)」は、けっこうな本数の映画にもなっているのだが、原作も、その映画化作品も、あまりきちんと日本に紹介されていないのは残念なことだ。

そんなわけで私もその全部を見ているわけではないのだが、なかでも未紹介なのが惜しまれるのが、1991年に香港で公開された、この「衛斯理之霸王卸甲」(英語題:Bury Me High)だ。

この時期は日本でもちょっとした香港映画の小ブームがあり、多くの作品が劇場公開やレンタルビデオ発売で見られたのだが、本作はまったく未公開のままで、その後もテレビ放送も含めてまったく未紹介のまま。

いろいろ事情があるんだろうが、なんとももったいない話である。

舞台は東南アジアの架空の国・加里南。人跡未踏の奥地に分け入った中国人の探検家コンビが、風水の特異ポイントを発見する(正直、この風水のポイントがどうゆうものかはよくわからない。ここに埋葬されると子孫が覇権をつかめるとかいうことが広東語や英語でセリフで説明されるのだが、明らかに説明不足なのだ。中国人には自明の理なのだろうか) だが一方がそのことを悪用しようとしたため二人は袂を分かち、もう一人(これが衛斯理の父親)は風水のカギとなるタブレットを隠して脱出する。

そして時は流れて数十年後、問題のポイントを示すタブレットをめぐって、巨大コンピュータ企業の女性オーナー(ムーン・リー〔李賽鳳〕)、軍事政権の独裁者(ユン・ワー〔元華〕)らが争奪戦をくりひろげる。

その渦に巻き込まれるのが、ヒーローの衛斯理(チン・ガーロウ〔錢嘉樂〕) 彼と友人の大学教授(監督でもあるツイ・シャオミン〔徐小明〕)は女性オーナーに協力して現地へ飛び、軍事力を誇示する独裁者と対決する。

独裁者の妹役としてシベール・フー〔胡慧中〕を配するほか、ユン・ケイ〔元奎〕 、ケネス・ツァン〔曾江〕、チョン・プイ〔秦沛〕ら。このころの香港映画を見ていた人なら必ずわかるはずの、おなじみの面々が顔をそろえるのでなかなか見ごたえがある。

ただし、この程度の「オールスターキャスト」は、当時の香港映画ではそれほど珍しいことではない。旧正月(春節)映画となれば、もっとすごい顔ぶれの映画がたくさんある。

1991年当時、この映画を屹立させていたのは、そのスペクタクルな戦闘シーンだろう。

架空の国・加里南(ベトナムあたりのイメージか)で独裁者が率いる軍隊がほぼ全編にわたって画面を圧するのだが、これがすべてホンモノなのだ。大勢の兵士たち、ヘリや車両、そして多数の戦車群。

もちろん、この時期にはまだCGはそれほど発達していない。

つまり、これらはすべてホンモノなのだ。

エンドクレジットを見ると、そこに「人民解放軍」とある。それも各方面部隊の名称が次々と。

つまりこの映画、どこでどんなコネを使ったのか知らないが、中国の人民解放軍の直接の協力を得て撮影されているのだ。そう思ってみると、いやぁ、迫力が違う。

考えてみてほしい、この映画が製作・撮影されたころ、香港はまだ返還前(返還は1997年) この時期、香港の人々は返還後を不安視し、カナダやオーストアリアへの移住が盛んだった。映画人も例外ではなく、この時期にジャッキー・チェンやチョウ・ユンファ、ジョン・ウーらが次々とハリウッドへ活躍の場を移したのも、目前に迫る返還と無関係ではなかった。

その時期に、あえて不安の原因であった中国の、それももっとも怖れられていた人民解放軍と手を組んだ映画製作とは、ずいぶん大胆な手に出たものだ。

まあ、返還にあたってうまく香港側を懐柔したい中国側の思惑と、派手な映画を作りたい製作側の利害が一致したということなんだろう。

そんなわけで、途方もなく大規模なクライマックスシーンを持つこの「衛斯理之霸王卸甲」 どこか日本のメーカーさん、出してみませんか。私も字幕付きでちゃんと見てみたいし(かつて香港製のLDで見ました。今回はアメリカ製のDVDで入手)

ところで、この作品のヒーローであり、多くのシリーズ作品の主人公でもある衛斯理だが、どうしてこうも毎回設定が変えられているのか。

もともとのシリーズ小説では「冒険好きのSF作家」なのだが、それがそのまま映画化された例は少ない。

今回もまた、「天才ハッカーの青年」に変えられていて、本作に先行したチョウ・ユンファやサミュエル・ホイが扮した中年男ではない。まあ演じたチン・ガーロウが若いから仕方ないが。だから衛斯理の美人妻のはずのパイスー(白素)もまったく出てこない。残念。

原作の『風水』はもちろん未訳なので読んでないが、衛斯理の父親が絡む話はたぶん原作にはないだろう。そうなると、ストーリー全体の雰囲気もずいぶん違うと思うのだが。

そもそも「冒険好きのSF作家」って設定自体がリアリティに乏しいものなのだから、映画屋さんにしてみれば変えやすく、いじくりたくなるのだろう。

しかし映画屋さんやテレビ屋さんといった映像作家たちは、どうしてこうも原作のキャラクター設定などを変えたがるんだろう? このへんは古今東西を問わずに共通したことだけに、これが映画屋さんのサガなんだろうか?

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