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孤独とひきかえに

フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」の読書会以来、恋愛・パートナーシップについて考えているから、どの小説を読んでいても、恋人達へ目が向く。

今、日本にあるリア充とか、モテとか、そう言った言葉は子どものおもちゃに過ぎないのだと強く感じる。

少し古いが、だめんずや、こじらせ女子なんてカテゴライズも、表面的な自分や相手を合理的にジャッジして、自省的に生きることからの逃げ口上として便利だったのかもしれない。

私なんかは、こういうカテゴライズを見ると、この国では恋愛において、対人関係の技術の熟練度や躾による社会への適合性の高さに魅力を感じる人が多いです。個人の成熟度や知性・教養をふまえた個性なんか百害あって一利なしです……そうですよね!?という強いメッセージを感じて怖気付いてしまう。

さて、サガンの「ブラームスはお好き」では、個人主義的な自由を望み、安楽な結婚生活を捨てた主人公ポールが、浮気な恋人ロジェへの恋心に囚われ、孤独を感じている。

ロジェはポールへの愛に囚われ、自分がポールを幸せに出来ているかに囚われ、自分が浮気するたびに、彼女から幸福だと請け合ってもらわないと不安でたまらない。請け合ってもらいさえすれば、日常のケチな悩みは全て打ち消される。それだけなのだ。

ポールは自らに問いかける。これは自分の望んだ人生だろうか?惰性や、思い込みではないのか?本当に?本当にこれを望んでいる?

彼女は、恋愛の割り切れなさを、心ゆくまで堪能する。混乱に満ちた恋という迷路を、若い愛人シモンからのラブレターにあった「ブラームスはお好きですか」という言葉のめじるしで、大胆に動き回り、愛の謎を解き明かす。

私は、和を重んじる文化に馴染めないできたので、テレビやネットに蔓延した恋愛観の幼稚性に、ウンザリしていた。しかし、このa小説から独立した人間同士の恋愛の残酷性をまざまざと見せつけられた時、内心恐ろしくも感じた。

ははあ、保守的な人々にとって、これを受け入れるくらいなら、恋愛に正誤をつけて身を守りたくなるのも無理はないな。と思った。だからこそ、一部の人達は、他人の恋愛に不倫だ、不純だと怒りを主張するのかもしれない。

これまでの私は、そんな人々を見て、あんたに関係ないだろ…と冷ややかに軽蔑していたが、その人達にじゃコントロール不能なものが怖いのだ。だから、恋愛にすらモラルを反映して欲しがる。他者と自己が同じ秩序の中で動いてくれなければ困る人たちなのだ。彼らにとっては、他人事ではないらしい。うっすら覚えた恐怖感は、私を少しだけ寛容にした。

しかし、私もポールと変わらない年齢になった。人生はシンプルさを失ってから久しい。結局、恋は割り切れないものだと、ことごとく思い知らされている。人生の何もかもがコントロール下にあるなんて、私には思えないのだ。人生に何度も叩きのめされ、思い知らされてしまった。

読書会では、80歳に手が届く男性と本作を読み深めた。その人は言った。

「ポールは自己を固定しないんだね」

心は固定されないということを、もちろんその人はよく知っている。しかし、その上で、敢えて固定してしまえば安楽であることも、よく知っているのだ。

このサディステックな関係性を、この恋人達が自ら選びとり楽しんでいることに、私達は思い至り苦笑いする。件の男性は、犠牲者シモンを生み出しながらもポールが執着するロジェという男は、一体どんな人物なのか、もっと描いて欲しかったと言った。

私はなんとなく、ロジェには別になんの特別さもないかもしれないと考えていた。ただ深くポールの懐で安心している身勝手なロジェ。1人の女に恋をして、ありのままの自分に戻ってしまった哀れな大男を、ポールは放っておけるタイプの女ではない気がした。













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