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コミュニティノートをファクトチェック

日本共産党員の方のツイートにコミュニティノートで物言いが付いた。それに再反論されている方がおられたので、両者の言い分を聞いてどちらか正しいのか見定めようというのが本記事の主旨である。


検証

まずいちばん最初のツイート。

香西かつ介さん(@kouzai2007)いわく、「(日共)党員には自由に意見を述べる権利はあるが、外から党のあり方や綱領を攻撃すると除名になる。同様の党則は自民党にもある」というのが彼の主張である。

たいしてコミュニティノートの筆者(beautiful fir bluejay)によると、自民党では、意見表明で除名処分される党則はなく、除名は刑事事件で有罪の場合にのみ適応されるから、それは事実誤認であるという。

投稿者の「自民党にも同様の党則がある」は事実誤認である。
自由民主党の党則によると除名処分は刑事事件での有罪の場合、 不起訴処分の場合でも党の名誉を著しく損じる場合に限られ 他、政治的道義的な責任があると認められた場合においても 離党勧告、党員資格停止に留まり除名処分は無い。 また、意見具申の場に関する党則は無い。 https://www.jimin.jp/aboutus/pdf/organization.pdf

上記のツイートのコミュニティノートより

それに反論されてるのが共和国神殿さん(@n_jacoken)で、いわく自民党の党則によれば、党の方針を公然と非難した場合は除名処分の対象であるから、コミュニティノートの方が間違いであるという。



幸いにも自民党の党則はコミュニティノートが「ソース」としてリンクを載せてくれているので、すぐに確認できた。


規律規約第9条にて、たしかに
「イ 公の場所又は公に発表した文書で、党の方針又は政策を公然と非難する行為
「イ 党大会、両院議員総会、総務会、衆議院議員総会又は参議院議員総会の決定にそむく行為
が”処分”対象であることが明記されている。
そして”処分”が何たるかは、次の第9条第2項に明記されていて、そこには確かに「除名」の文字がある。

ということで、「自民党は、党議や党の方針を公然と非難した者に対して除名が可能」というのが、規約上の答えである。コミュニティノートの「事実誤認」という指摘が事実誤認であった。

なお、beautiful fir bluejayさんはコミュニティノートを使ってさらに次のように再反論を加えている(評価不足で表示はされていない)。

https://twitter.com/i/communitynotes/u/beautiful-fir-bluejay

『処分内容は勧告でる』(ママ)とあるが、先に示した通り、処分は勧告にとどまらず、除名にまで及ぶのは党則の63・64pにはっきりと書いてある。

さて、以下が十一条であるが、「有罪判決が確定した場合は除名の処分を行う」ということが書いてあるだけであり、「除名処分は有罪判決のとき”のみ”」と読解するのは、全くの誤りであろう。

なお、規約にあるからといって実際に除名が行われるのかはまた別の話である。あくまで規約の有無の確認を目的とした検証であり、自民党や日本共産党への評価を目的としたものではないことご留意願いたい。

おわり







コミュニティノートの問題点

さて、以上は(自称)ファクトチェック。ここからは私見である。
コミュニティノートの問題は、なによりたんなる匿名の素人の見解がまるで「公的なファクトチェック」のように機能として表示されてしまうことだろう。(この記事もまた素人の見解であるが、明白である)
機能として表示されるのと、リプや引用RTとして表示されるのではその説得力や意味合いというのはまるで変わってきてしまう。そのうえ、そのノートが正しくないとなれば大きな問題である。

このような批判をすると「コミュニティノートは属性や多数決によって決まるものではなくTwitterユーザーが過去の評価も参照し評価の偏りを防止している。」(beautiful fir bluejay)というような反論が飛んでくる。しかし暗愚が暗愚を評価する機能の一体どこに真実の担保があるのだろうか。事実として、上記のようなデマゴギーが出回っているのである。

コミュニティノートの「役に立った」という評価は右派左派両方から評価の高いときに表示されるとされている。これをもって多数決のシステムではないという。しかし、両翼から評価の高いことが発言の正しさを保証するなんて前提が全くの無根拠なのである。

両翼から評価の高いことは、両翼から高い評価が多かった以上のことは意味しない。それを真偽の判定に結びつけるのは完全な誤謬だ。まさに愚かな多数決以外のなにものでもない。

この事件でなによりも残念なのは、beautiful fir bluejayさんの書いたコミュニティノートには自民党の党則PDFがソースとして貼られていたことだ。
PDFを開いて「除名」と検索すれば、上記の結果がすぐに自分で確認できたはずである。だが誰もしなかったのである。誰もソースを確認せず、ノートの文面だけで判断して”多数”が「役に立った」のボタンを押したのだ。一体この機構のどこに「真実」への道が存在するのだろうか?

ツイッターは例のコミュニティノートを「わかりやすい · 品質の高い資料を引用している」と評価している。しかし、わかりやすく、正確なソースを引用していても、その答えが「正しい」とは限らない好例である。
コミュニティノートを「マジョリティノート」と評している方がいたが、言い当て妙である。アルゴリズムによってちょっと編纂された「Togetterの赤文字コメント」くらいの信頼が正当な評価だろう。

多くの”人民”はソースを読み解く能力もなければ読む気すらないのが明らかになった以上、コミュニティノートのシステムは根幹から崩壊しているといえる。

また、「コミュニティノートは再反論によって常時訂正される」という主張も、怪しいものだ。事実、未だにこの明確に誤ったコミュニティノートは5日を経た現在も表示され続けているし、また、今後表示を訂正したから無罪というわけにもいかないだろう。

香西かつ介さんには400以上の誹謗中傷のリプ・引用RTがすでに送られているし、それをスクショし「公開処刑者」と書いた銀星王さんのツイートは2000RT以上拡散されている。
いったんコミュニティノートによってデマを流された場合、その名誉を回復するのは非常に困難である。デマを抑制するはずの機構がより攻撃的で強力なデマの拡散機関として機能してしまっているのは重大な問題だ。

このような事例は以前にもあり、コミュニティノートに「捏造」と評価され炎上したツイートが、メディアによるファクトチェックで「事実」だったと覆された事件がある。

いったんコミュニティノートでデマゴギーを書かれてしまうと、「ガソリン」として機能してしまう上に、機能上、反論することすら難しい。甚だ悪質なデザインと化していると思う。(一応「再審査」を要請することができるが、なんとそれを審査するのもツイッターユーザーなのだ。上級審の裁判官が前と同じみたいなもんである。意味あんのか。)

旧来のファクトチェック機能は、チェックするメディアによって恣意性が生まれてしまうのが懸念点だった。そのため人民の人民によるファクトチェック*としてコミュニティノートが出発したが、今度はそのコミュニティノートのファクトを誰が保証するのかという議題が上がる。そしてそれすらも人民に放り投げた。結果はご覧のとおりである。9の有用な瞬間があっても、1に無辜の人を虚偽によって中傷するようなことがあるなら、それは悪徳であると私は思う。

(*「コミュニティノートはファクトチェックではなく補足情報を載せているだけ」と運営は主張するが、真偽の責任から逃れているだけであり、最低な言い逃れだと思う。また、「ファクトチェックではない」ということをもって、ファクトチェックの定義に満たない個人の感想レベルの反論が跋扈してしまっている問題もある)


ファクトチェックの歴史

しかし、この惨状は我々が作り出したといえる。「人民の保証するファクトチェック」が信用ならないとするのなら、誰がファクトを保証するべきか。旧ツイッターでは20年あたりから運営が独自に判断したファクトチェックを行っていたが、一部から顰蹙を買っていた。
運営者が一方的に行う「ファクトチェック」はその恣意性を否定できないからだ。どの投稿を選ぶか、どう評価するか、そこには必ず主観がある。トランプ元大統領に対するフェイクラベルは政治問題にまで発生した。

同じようにFacebookのコンテンツモデレーションもしばしば電子フロンティア財団などから表現の自由の問題として批判を受けている。
Facebookは不適切な投稿を判断する第三者組織を用意することで沈静化を図ったが、こちらもうまくいってるとはいい難い。ワンクッション挟んでいる分、旧ツイッターよりはマシとはいえ、結局特定の組織が一方的にファクトや適切・不適切の判断をしているのには違いない。
16年頃から社会的にデマ・フェイクニュースへの対応が要求される流れが強くなったが、それはプラットフォームが対応すべき義務だったのか疑問である。

コミュニティノートも社会からフェイクニュース防止の要請を受けて作られた出自を持つ。「デマ対策をしろ」「一方的にファクトを決めるな」その両方の批判から生まれた奇形児が「コミュニティノート」であろう。これほど無責任で都合のよいシステムはあるまい。
デマ対策を問われればコミュニティノートがあるといい、「ファクトが間違ってる」と批判されれば「アルゴリズムと人民投票で表示されてるだけ」と言い逃れができる。
ツイッターはファクトの立証責任をユーザーに擦り付けたうえ、掲載責任もアルゴリズムという不確かなものに被せたのだ。

「これがファクト」と運営の名の下宣言する勇気もなければ、「ノートの真偽」への責任も持ちたくない。そのような軟弱な組織が、ファクトチェックなんて機能を始めたのがそもそも間違いだったのである。

また、時代や環境によって揺れ動いていくのが「ファクト」である。パラダイムシフトの解説をするまでもなく、近年もコロナ情報の多くが、ファクトとフェイクの境界を揺れ動いた。当初根拠薄弱な陰謀論として扱われていた新型コロナの研究所流出説は、今は米政府も公に認めている(”説”として認めているだけであって、決して事実と認めたわけではない https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-64822222)。
はたしてSNSの運営ごときがあれこれ「ファクト」を決めつけるのが適切といえるだろうか。

しかしながら、そのツイッター社という王様をギロチンして表れたのはジャコバン派だったわけである。匿名SNSのなかの匿名ファクトチェッカーという二重の匿名のベールに身を隠した一方的な放言を可能にした。そこには「双方向の開かれた空間」というソーシャルメディアの理念はもうない。

この歴史で気付かされるのは、ファクトを宣言することとフェアネスさの両立というのは極めて困難、または不可能ということだ。断言には責任が伴うし、一方的な断言はフェアネスを損なうだろう(仮にそれが正しくても)。ファクトチェックというのは本来的に傲慢なものだ。
Facebookはファクトを重視した運営を決め、ツイッターは(アルゴリズムと人民投票による)仮初めのフェアネスさを選びファクトの信頼性を損なった。

現ソーシャルメディアの犯した過ちは、そもそも「SNS」という絶対的な独占空間において「ファクト」の裁定を始めてしまったことだろう。ツイッターユーザーはツイッターという「国」から逃れられない。そこで行われるファクトチェックというのは検閲や迫害に等しい(トランプ率いる支持者たちはメイフラワー号に乗ってTruth大陸に移動してしまった)。

プラットフォーム風情が、「真実」の裁定者を気取るべきではなかった、というのが3年前から変わらぬ私の結論である。ただし、3年前は「傲慢」の罪の意味で言っていたのが、今は「怠惰(無知)」の罪も加わった点で、さらに悪化している。

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