マズローの階層欲求説

宗教の衰退の原因と、残された3つの生存戦略

①吉野家の話


先日、友人とボードゲームで遊んでいた。

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ゲスクラブ コザイク(cosaic) https://www.amazon.co.jp/dp/B07PQG1W86/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_sqKvDbPXWXBYW @amazonJPさんから


「ゲスクラブ」は、よくある「〇〇と言えば何?」といった質問に、みんなと被るように答えたり、あえて被らないように答えたり、そんな駆け引きを楽しむゲームだ。


その中で、「チェーンの飲食店と言えば?」の質問に、私は「吉野屋」と答えると、「表記が間違ってるよ」と指摘してもらった。


「吉野屋」ではなく、「吉野家」。


「屋」ではなく、「家」なのだ。


「屋」と「家」の違いについて、簡単に調べてみると、


「家」は信念を大切にする、「屋」は商売を大切にする。


とか、


「家」は「屋」の中の「屋」というプロ意識の表れ、専門家としての自負がある。


など、色々な解釈がしてあった。


しかしどうやら国語的に明確な意味の違いは無さそうだ。


ちなみに吉野家さんの場合は、「『家』で食べている様なアットホームな雰囲気の店にしたいという創業者の想い」から、「吉野家」としたらしい。


②宗教家として生きていく


さて、「宗教家」も、読み方は違えど「家」である。


「家」である以上、そこには宗教に関する「専門家としての自負」が必要であろうと私は思う。


だが、それだけでは足りない。


「家」や「屋」を名乗って生きていく以上、必要なもの、それは「売り物」である。


魚屋が魚を売らなくなったら魚屋とは言えない。


画家も絵を描かなかったら画家とは言えない。


政治家も政治活動をしているから政治家である。


形のあるものであれ、無いものであれ、何か「売り物」を作って売っているからこそ、「屋」や「家」は成り立っている。


現代日本社会において、宗教の衰退が叫ばれて久しいが、その原因は「宗教に『売り物』が無くなってしまったから」ではないかと私は推測している。


現代日本における宗教の衰退は、もはや末期症状を呈している。


私の信仰する「天理教」でも、信者の高年齢化や教勢の低下は目に見えて進行している。


しかし、幅広く他宗教の研究をした経験のある私から見れば、天理教の衰退など断然「マシ」な方だ。


特に天理教と同じく「新宗教」のカテゴリに属する教団の中には、衰退どころか滅亡しかかっている教団が、実は数多くある。


そうした教勢の推移は、文部科学省にアクセスすれば簡単に誰でも閲覧することができるので、是非一度見てみてもらいたい。

宗教統計調査 https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00401101&tstat=000001018471

日本の宗教が今、どれだけ存亡の危機に晒されているか、分かっていただけると思う。


③宗教家は現代社会に対して、一体何を売れるのか?


宗教の衰退は「売り物」が無くなったからである、というのが私の主張だ。


それは具体的にはどういうことだろう?


もう少し詳しく説明したい。


古代から、宗教というのは人間にとって無くてはならないものだった。


それは、昔の人間社会には「宗教にしか売れないもの」がたくさんあったからである。


例えば、誕生、成人、結婚、死去、そうした人生における大きな事柄は、宗教的な儀式でもって認めてもらわないと、所属する集団に受け入れてもらえなかった。


しかし、そうした「認可」は、今や「役所」の売り物になっている。


「病気を治すこと」も、長くは宗教の売り物であった。


医学が発達する前はもちろんであったし、発達した後も、医療が一部の特権階級にしか受けられないものであった時代には、その治療を担ったのは宗教であった。


しかし今となっては、「治療」はもはや紛れもなく「医療」の売り物になっている。


これは「心の病」に関しても同様で、心が病んだ時には、昔なら宗教の門をたたく以外に選択肢は無かったが、現在なら、カウンセリングや精神科の治療を希望する人の方が圧倒的に多いだろう。


「福祉」も元々は宗教の売り物であった。


「恵まれない人に手を差し伸べる」のは、かつては宗教家の本領だった。


しかし今や、行政や各種の社会福祉法人の方が、宗教よりもはるかにずっと上手に「福祉」を民衆に売ることができる。


戦後の高度経済成長期に宗教ブームが起こったのは、「コミュニティ」が売り物としてヒットしたからである。


古代から長らくにわたって、日本人にとってのコミュニティは「村」にあった。


その「村」を支えたのも神社やお寺などの既成宗教だったが、戦争に敗けた日本は、「天皇」という日本人統合の精神的主柱と、「村」という封建的なコミュニティの在り方を破壊されてしまった。


それまでは「村」に縛られて生きるしか無かったはずの若者たちは、次々に「村」を飛び出して、「都会」という新しい大海原に出て、自由に働きだした。


しかし、「所属するものが何もない」という状況は、人間を酷く不安にさせるものだ。


そんな日本人が、「村」と「日本」の代わりに手に入れたコミュニティが、「仕事」と「宗教」だった。


戦争で「心の土台」をボロボロに壊された日本人たちは、その穴と不安を埋めるかのように、「仕事」と「宗教」に熱中した。


そしてその熱中は、前者は「東洋の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を生み出し、後者は世界でも稀にみる、新宗教ブームを日本に巻き起こしたのだ。


新宗教は日本人に「居場所」を作った。


「村」を出て心細く感じている者同士が集まって、同じ思いを持ち、「仲間」と呼び合えるような関係と、仲間同士で集まり合える場所を提供した。


その「コミュニティ」という売り物は売れに売れたが、その人気を利用するものも当然現れた。


霊感商法や洗脳などをする悪徳カルト宗教が世にはびかり、そこにとどめをさすように「オウム真理教」事件が起こった。


それによって、宗教が売っていいた「コミュニティ」という売り物には傷が付いてしまった。


今現在も、宗教に代わるほどの「コミュニティ」を上手に売る組織は、実のところまだ出てきていない。


しかし少なくとも現代人は、一度傷ついてしまった「宗教のコミュニティ」という売り物を、再び買う気にはなれないらしい。


そうしてどんどんと「売り物」を他に取られてしまった宗教に、最後の一撃を与えたのが、「SNSの発達」だ。


奪われた売り物は「自己承認」。


「私はここにいて良いんだ」「価値のある人間なんだ」、そう思いたいという欲求は、人間なら誰しも持っている。


しかし、自分の力でその欲求を実現できる人間というのは、一部の才能に恵まれた、もしくは家柄に恵まれた人間だけだった。


そんな状況において、「名も無き民衆」に「自己承認」を与えていたのは「宗教」だった。


「あなたが生まれてきた理由はこうですよ」と、人間にルーツを与えることで、今自分がここに居ることを肯定し、「あなたはこうする為に生まれてきたんですよ」と、生きる意味を提示し、それを守らせることによって今自分がしていること、生きていくことを肯定させてきたのは、紛れもなく「宗教」だった。


それによって有史以降のほとんどの時代において、宗教は人々に安心を与え、そして社会システムが円滑に進んでいく手助けをしていた。


しかし、わずかここ100年の間に社会の情報化が急速に進むと、人々はより多くの「選択肢」を手にすることができるようになった。


今までは「これしか方法が無い」と思っていた事柄に、実は他の選択肢も存在することが分かってきたのだ。


そうして人々は「他の選択肢」を知ると共に、今までの唯一だと思ってきた選択を「疑う」ということも知るようになった。


宗教とは「信じる」ものだ。


なので、「疑う」という心は宗教にとっては致命的で、それが人々の間に広まると共に、既成宗教は瞬く間に力を失っていくことになった。


カルト宗教が洗脳をしようとする時に、「情報の遮断」から始めるのには、そういうカラクリがあるのだ。


そうして、宗教が力を失いながらも細々と何とかやってきたところに、近年とどめをさしに来たのが「SNS」だ。


「SNS」は誰でも「主人公」になることができる代物だ。


それこそ、「名もなき民衆A」で終わるはずだった人も、簡単に世界の表舞台で自分を表現することができ、それに対して不特定多数の人から評価をもらうことができる。


こんなに気持ちいいことはない。


だからこそ、現代日本人の関心の多くが、今SNSに注がれている。


バブル期には人々の関心を一所に集めていた「娯楽」でさえ、今や旅行や食事に行くこと自体が目的でなく、”映える”写真を撮ってSNSに挙げることこそが目的になっている場合もよくある。


現代日本人は今、SNSに夢中だ。


そして人間は、何かに夢中になっている時というのは、案外に精神的に健康である場合が多い。


そうした状況の中で、今人々の心の中に、宗教が入っていく余地は無い。


④現代宗教に残された、3つの選択肢


現代宗教の原因は、宗教に「売り物」が無くなってしまったからだ、ということを述べてきた。


これを、もう少し厳しい言い方で言い換えてみたい。


現代社会において、「宗教」は必要とされていない。


宗教家にとっては厳しすぎる言葉ではあるが、残念ながらこれは事実であると、私は考えている。


もちろん、宗教の必要性が完全に無くなってしまうことは、いつの時代においても有り得ない。


しかし、現代においては宗教の必要性というものは、人々にとって非常に分かり難く、伝わり辛いものになっている。


そしてこのことは、裏を返せばそれだけ「社会」が成熟した結果であるとも言える。


昔は、人間が幸せになるには、宗教が不可欠であった。


しかし今は、人間たちがみんな幸せになれるよう知恵をふり絞り合い、努力を続けた結果、宗教の力を借りなくても幸せに暮らしていける社会が実現した、ということでもあるのだ。


これは一つ、人類の平和と幸福を願う宗教者にとっては、ある意味では喜ぶべきことでもあるのだ。


そうした、厳しくも紛れもない事実を、しっかりと受け止めた上で、今後の宗教について考えていかなくてはならない時期に来ているのだと思う。


そんな現代において、今宗教が取れると思われる選択肢を3つ、提示したいと思う。


その① 「なんでも屋」として生きていく


宗教に売り物が無くなった、という話をしたが、正確に言うと、「無くなった」わけではない。


今まで宗教の他に売る人が居なかったので、専売権を持って大儲けしていた分野において、それをもっと上手に安く売ることのできる仕組みが他で確立された為に、商売競争に敗けた、というのが実際である。


なので、宗教は未だにたくさんの物を売っている。


ただそれが、売れなくなっただけである。


その売れなくなった物も、やり方によっては、もう一度売ることは可能だ。


その方法の一つが、「なんでも屋」になることだ。


言い換えると、宗教は一つの分野だけで戦う「専門店」としては敗けたけれど、色んな分野を同時に扱う「スーパーマーケット」としてはまだ戦えるんじゃないか?ということだ。


医者は病気を治せるが、裏を返せばそれ以外はできない。


カウンセラーも心の悩みだけ、福祉法人は福祉のことだけ、弁護士も法律関係の事情の相談にだけのれる。


そのような、一つの分野を専門的に究めている分野の人間に、もはや宗教が敵うことはない。


しかし、たとえどれも中途半端だったとしても、病気も心も福祉も事情も、なんでも来い!という「よろづ相談所」になることができれば、そこを利用するメリットは十分にある。


「なんでも」は難しい、というのも最もなので、少なくとも2つ以上の強みを持つ、ということが大切だ。


宗教家として真っ当に活動していれば、その人の居る所には「居場所」ができる、また「自己承認欲求」が満たされる、といった事柄は、特別なことをしなくても、宗教が本来的に持っている強みだ。


それに加えて、自分にはこれだ!と言えるような強みを、宗教活動に加えて行うことができれば、宗教はまだ十分に他の分野にも勝ることが可能だ。


その意味では、お寺・神社・教会などで、福祉活動を行う、ということが、今最も現実的で、かつ成功確率の多い生存戦略かもしれない。


②「信仰」で勝負する。


さて、1つ目の選択肢である「なんでも屋」になる、ということが、おそらく一番楽な道であろう。


とするならば、残りの2つはある意味では茨の道である。


それは、あくまでも「専門店」として社会に打って出る策だからである。


「信仰」は、どこまでいっても「宗教」にしか扱えない分野であり、その意味ではまさに宗教の神髄とも言うべきものである。


治療や福祉やコミュニティといったものは、あくまで信仰を伝える際に生まれてきた副産物として、今まで宗教が扱ってきただけのものであり、それこそ別の組織が取って代わっても問題のないものである。


しかし、信仰は宗教以外には扱いようがない。


宗教が信仰を伝えることを止めれば、たちまち「信仰」という考え方は世界から無くなるだろう。


しかし、現代社会において、「信仰」を伝えることは非常に難しい。


信仰を伝えるにはまず、信仰者が信仰について、しっかりとその素晴らしさを理解し、体得していなければならない。


でないと、信仰をしていない人に、信仰の重要性が伝わるはずもない。


また、信仰や宗教が現代においてはそもそも必要とされていない、という問題があることは、前述した通りである。


その理由について、歴史的観点から述べようかと思ったが、少し長く難しい話になるため、これについてはまたnoteを分けて、論じていきたいと思う。


信仰とは、卵の殻である。|宗教家コラムニストはかせ|note(ノート)


では、「信仰」で勝負することは現実的ではないので、福祉活動を頑張ろう!と、短絡的に皆が考えて良いものかと言うと、そうではない。


今は信仰が伝わり辛い時代かもしれないが、いずれ、全人類に「信仰」が必要とされる時がやってくる。


その時に、宗教が既に形骸化してしまっていて、もう宗教の中から「信仰」が失われてしまっている、ということが、最も危惧される最悪のケースだ。


なので、確かに「信仰」一つで生き抜いて行こうと考えることは、現代においては非常に難しいことであるし、誰にもできることではない。


しかし、宗教者は必ず、この難しい時代においても「信仰」を失ってしまわぬよう、努めていかなくてはならない。


では、「信仰」が必要とされる時、とはいつ来るのか、ということに関して、後述したい。


③「人間性」で勝負する


さて、残された最後の選択肢は「人間性」で勝負する、ということである。


「人間性」で勝負する、とは、誰もが憧れるような人、こうなりたいなぁと思えるような人、そうした理想の人物像を、宗教者自らが体現し、そうなるための方法を教えていく、という方法である。


これも、ある意味では「専門店」として戦う方法である。


今、現代社会は確実に、「組織」の時代から「個人」の時代へと変化しつつある。


組織の中に居なければやりたいことができない、という状況から、組織の力を借りずとも、個人単位でやりたいことができるようになってきた。


既に述べたSNSの発達や、YouTuber人気などがそれにあたるだろう。


それとともに、「個人としてどうあるか」ということが、現在関心を集めている。


その理由を、「マズローの欲求階層説」を元に考えていきたい。


「マズローの欲求階層説」とは、心理学者アブラハム・マズローが提唱した説で、人間の欲求はピラミッドのように階層を成していて、より基本的で低次の欲求が満たされて初めて、人間はそれより高次の欲求を求めだす、という説である。


マズローはその欲求の階層を5つあると考え、後学の結果、そこに1つ付け加えられて現在は6段階になっている。


ではその人間の欲求の6段階を、今まで述べてきた具体例がどこに含まれるかも含めて図解していきたい。


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この図を基に説明していこう。


下に書いてある欲求の方が、より基本的で低次な欲求。


上に行くほどより高次な欲求になってくる。


人間にはまず、生理的欲求、というのがある。


それは、食欲、睡眠欲、性欲の3つで、生きていくうえで不可欠な欲求、言うならば、「生きたい」という欲である。


ひとまずそこが満たされると、人間は次に、その生理的欲求が常に満たされる状況を、なるべく長く保ちたいと考え始める。


そこに起こってくるのが、「安全の欲求」である。


住居に住まうこともそうであるし、今まで話してきた、医療や福祉といった分野も、この安全の欲求を満たすために発達したものである。


そうした、「とにかく生きる」という欲求が満たされてくると、「どう生きるか」ということが重要になってくる。


特に、「自分とは何か」ということを求めだすのである。


「自分とは何か」を考える上で、一番簡単に答えを出す方法は、「所属」することである。


「貴方は誰か?」と聞かれた時に、所属している国を答えて「日本人」と言ったり、所属する会社を答えて「〇〇社の課長です」と答えたり、所属する家を表す名字を答えたりすることができる。


それは人間にとって心地よいことであるから、そこに「所属の欲求」が生まれるのだ。


宗教がかつて形成していた、「コミュニティ」の存在意義も、それを満たすためにある。


その次に生まれてくるのが、「承認欲求」である。


他者に自分の存在を認めて認めてもらいたい、という欲求である。


宗教が神の教えによって人間存在を認めたり、SNSに人が熱中する理由でもある。


それが満たされてくると、「自己実現の欲求」が生まれてくる。


他者からの評価などに関係なく、純粋に自分の持っている力を存分に発揮したいと思うようになる。


マズローはこの「自己実現」を欲求の最終段階と考えたが、近年その先が考えられるようになった。


それが、「自己超越欲求」である。


自分の力などに留まらない、人間の力など問題にならないほどの超越的な存在を体感したい、というような欲求である。


それこそ、「神」を求めるような欲求である。


以上が「マズローの欲求階層説」であるが、私はここに、哲学者ヘーゲルが提唱した「世界精神」の考え方を導入したい。


「世界精神」とは、人類全体の精神に通底するもので、一種の神的な力である。


その「世界精神」が、一つの方向に向かって進歩し続けているとヘーゲルは考えた。


この説明では難しすぎるので、ごく大雑把に、かつ私の私見を含めて言い換えれば、「人類は、身体だけでなく、精神も時代と共に進化している」ということである。


この考え方を、欲求階層説と合わせると、こうなる。


人類は、狩猟採集民であった頃(1万2000年以上前)、生理欲求だけをひたすら求めていた。


それが、農耕民になり、食料の供給が安定しだすと、今度は安全の欲求を求めるようになった。


安全が社会全体的に守られだした文明発達期(約4500年前)からは、新たに所属の欲求が求められだした。


その後、都市国家の形成が進むと、人々の所属が明らかになってくる。


すると今度は自己承認欲求が求めれだし、そして産業革命前後(約200年前)、社会システムが大きく変わる中で、自己実現欲求も求められだした。


このように、人類は個人のレベルだけではなく、社会全体として段階的に進化していると考えられる。


狩猟採集民時代に生まれた子供は、生理欲求を求めるのに一生を費やしただろうが、現代に生まれた子供は、物心ついてすぐから自己承認の欲求を満たしたいと思う段階からスタートしていることだろう。


そして、この欲求の進化と共に、宗教も変化してきたのだ。


人々が安全を必要とする時代には医療や福祉を担ってきたし、所属したいと思う段階には、宗教が土地を支配したり、国教になって国の政治を助けたりした。


自己承認の欲求が生まれるまで人類の精神が進化してくると、神の教えによってそれを導いた。


このように、宗教は今までも、人々のニーズに従って、形を変えてきたのだ。


そして現代、人類は自己承認の段階を超越して、自己実現を誰もが求める時代がやってきた。


だからこそ、今宗教が人々に対して最も売っていけるものは、「人間性」ではないかと私は考えている。


人間には生まれつき、善悪の判断がつくようにできている。


そして誰しもが、できることなら「悪い人」より「善い人」になりたいと思っている。


しかしそれは、「できることなら」なのだ。


なかなか「善い人」になるというのは難しい。


「善い人」になれば、幸せになれるということが分かってはいても、だ。


難しいからこそ、「悪い人」にならざるを得ない人も出てくる。


そうした現代において、「善い人」を体現してみせ、そうなる為にはどうすれば良いのかを示し、人々を導く、というのが、今何よりも宗教に求められている役割ではないだろうか。


そうして人々の多くが自己実現欲求を満たし始めた時、「自己超越欲求」が社会を支配する時代が来る。


その時が、まさに「信仰」が必要とされる時代になる。


その先に、どの宗教も目指しているであろう「世界平和」の世の中が待っているのかもしれない。


#宗教 #コラム #低迷 #衰退 #原因 #ビジョン #生存戦略

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