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つながりという名の〝おくすり〟勉強会 での気付き。

昨夜、当団体が主催する「つながりという名の〝おくすり〟勉強会」が開催されました。詳細はこちらのイベントページへ👇

本編終了後のディスカッションが白熱し、長時間話をした後、(ゆるゆるトークタイムなんて嘘だった、最後までご参加いただいたみなさん、お疲れさまでした)なんだかいろいろ考えて私は朝まで眠れませんでした(笑)眠くて何を書いたかよく分かっていませんが、72時間以内アウトプットを義務付けている身なので書いておきます。

自分のできることしかできない

寝ずに考えても、結局「自分のできることしかできない」という当たり前の結論にしか至りませんでした😁
どうアタマをひねっても「自分のできることでしか社会の接続点にはなれません」。どんなに良いことでも能力以上のことをやれば必ずガス欠になります。そこに巻き込まれて困る人がいると考えるなら、やっぱりひとりでは難しい。能力以上のことをやる時は、仲間がいて、それぞれに役割があって、そこそこ軍資金もあって、戦略をたててという段取りも必要です。

「論よりRun」もしかたあるまい

ただ、人間が関わる以上「論よりRun」にならざるをえない場合もあるのも理解できます。「困っている人がいるし、良いことだからやろ!」みたいな骨髄反射ではじめて、キャパオーバーになったり、始めてみたけど手応えがないとか、思ったよりしんどいとか、始めた側が辛くなるならやめちゃうのも自由だとも感じます。それがとても個人的な活動であればあるほど、今日の明日でやめちゃうくらい自由でいい。そこで振り回される人がいたとしても、それが人間を中心に置いた活動だからこそ、当然起きるであろう摩擦であり、その場に集う人が、その時に解決すべきことだと思うから。そこを心配して何もできないというのは本末転倒だと思います。それに、どんなに良い活動でも摩擦の起きない場なんて、ないと思いますしね。

肩書きなんていらない

また、その超個人的な活動そのものに「リンクワーカー」とかそういった肩書きは、まったく必要はないし、むしろあるからこそ専門的な知識が必要だとか、私には関係ないといった思い込みで、身近にある課題としてとらえられないのは、とてももったいないことだとも思います。究極をいえば、「社会的処方」や「リンクワーカー」なんて言葉も概念もない、でもそれに似た活動が市民の中から自然発生的におこることが理想なんですよね。

そういった点で、政府の「孤独・孤立」対策と私たちイチ個人、イチ市民のそれは、別物であると考えないといけないのでしょう。

市民ひとりひとりが自身の生活の中に社会的な役割であったり地域とのかかわりしろを見つけていくことはとても大事なことです。そこを難しく考えれば考えるほどドツボにハマっていく感じがします。
そういうことも含め、改めて考える機会になりました。

ビジネス的発想も「社会的処方」を文化にする一端を担う

ひと検を主催する側としては、受け皿がいっぱいあって、そのネットワークでニーズに合った場所に、集まりたい人がつながって行けば良いよね。という理想は変わりません。居心地が良い場なんて人それぞれ。最適解がない以上、質より量ということにもなるのかもしれないけど、それを選んでいくことの自由も当然あるのですから。それで淘汰される受け皿も増えるんでしょうけど、そこはビジネス的にドライに考えて解決しても良いと考えます。
収益化もしかり、ニーズをリサーチ、分析することも、場の目的、ミッション、ビジョンの言語化、whyから語ることも、デザイン思考で失敗を繰り返しながらも、続けて行くことで、質は担保されていくはずです。

こういったビジネス的発想での持続化可能性も「社会的処方を文化にする」一端を担うと私は信じています。

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