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「ありのままの自分を受け入れる」の誤認識

先週、約30年働いたパートの大先輩が定年退職するので送別会がありました。
会議室で30人ぐらいのランチ兼送別会。
お別れカードにほんの短い挨拶を捻り出すのが精一杯なぐらいの仲だったけど、最後に長年勤めあげた人が何を言うのか楽しみでした。
でも簡素な挨拶だけで、これだけは言いたい・伝えたいメッセージとか何も無くサラッとお開きに。

おいおい、、何十年も毎日顔合わせて多くの時間を共有してるのに、何一つ思い出ないのかよ⁉︎ え?せめて同じ島は?暴露話とかは?って。
え?と思ったけど、私も聞きたい事が特に無い…
これ…このままいくと自分も20年後同じだ…

彼女は孫もいるし、プライベートに充実したモノがあったんでしょう。
でも私がこの状態で、今こそもがいてるけど違和感にも慣れて、ぬくぬく慣れた環境に浸かってたら、特にこれといった想いも出来事も無くあっという間に定年を迎える。

この会社に居続けても、稼げないし(何なら極貧)、情熱もない。
主体的に生きる活力も枯れ、いずれ頭も心も使う事なく時間だけ過ぎる… 怖過ぎる…

命を燃やしたい。金も稼ぎたい。
自分に自信持ちたい。自分の時間の過ごし方に自信持ちたい。
自己肯定感高めて自分の人生に満足したい。
ありのままの自分を受け入れるってどういう事?

ちょうど心理カウンセラーの野口嘉則さんのYouTubeを見たばかりだったので、私は何を思ったのか送別会の時に、隣り合った人と少し会話する程度で、ただ食べてたんです。
面白い事を言う私じゃなくて、ありのままのただの私でいないと、そしてそれを他者が受け入れてくれないと自己肯定感上がっていかないよね?って。
でも内心、進行する人もおらんし、ただ黙々と食べるだけの送別会ってどうなん?って会のムードを変えたい衝動はあったりして。

これ、自分がやりたかったらやればいいんですよね?
求められる人物像に応えて演じるのではなく、
素直に自分の内から沸いた欲求ならやるべきで。

他の人も自由に発言出来る和やかな雰囲気に変えたかったら、やれば良かった。
そんで失言してシラけても、自分だけクックックって含み笑いしてるぐらいの方が自分満足度高まる気がする。

なんでこんなに引っ込み思案になっちゃったんだろう?

というか、そもそも熱を持ってここにいる人達と関わって無いんだな。

私は一体、誰と、どこで、何をしたいんだ? どう過ごしたいんだ?

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