見出し画像

GPの原点となる創業時から今、そして未来 ~その2~

こんにちは。
株式会社ゼネラルパートナーズの進藤均(Shindo Hitoshi)です。

このnoteは

の続き、三部作の2つ目です。

2003年の創業期のドタバタ劇 ~ 2017年の第二創業期に至るまでの、GPの挑戦と成長、その過程で気づいたことを書いています。


創業期

はじめての就職決定がうまれるまで

上野にあるマンションの一室から始まりました。玄関ドアに紙の看板を貼り、営業活動を開始しました。

障がい者雇用を進めたいがどうすればよいかわからない企業と、働きたくても働けない障がい者を結びつける人材紹介事業です。

障がい者は0人、求人企業は0件、知名度はもちろん0です。にもかかわらず、営業開始初日からアポイントが30件とれました。企業側は興味関心があったのです。どのように雇用すればよいのか悩んでいたということです。「障がい者と働いたことがないので、どんな仕事ができるのかわからない」、「障がい者ってどんな人たち? なにを配慮すればよいの?」、「ハローワーク以外に採用方法がない」といったニーズがありました。

しかし「障がい者って、車いすの人のことでしょ?」と思い込んでいる人事担当者もいて、理解が遅れていると感じました。また、「障がいは軽度でないと難しい」「配慮はできない」「〇〇障がいの人は面倒」というわがままな声も多くありました。さらには「仕事はないけど、来て席に座っててくれればお給与を払う」という最悪の企業もあり、差別偏見が色濃く残っている状況でした。


まさに理解度マイナスからのスタート。ようは、「何をすればいいかわからないけど、煩わしいことなく採用したい」というニーズだったのです。障がい者への差別偏見を解消するためには、まず正しく理解してもらう必要がある。

丁寧に説明することに注力しました。どんな障がいなのか、どんな仕事ができるのか、どんな配慮が必要かについて詳しく伝えることから始めました。納得してもらうためにレジュメは何枚にもなりました。当然ですが、簡単に理解されるわけもなく、まったく求人獲得につなげられませんでした。しかし、風向きが変わる出来事がありました。


ある団体が、厚生労働省に対して、障がい者雇用率を達成していない企業名を公開してほしいという請求を行ったのです。そんなことをされたら企業はブランドに傷がつき、不買運動や訴訟など、大きなリスクとなることが予想されたため、経団連は猛反対していました。しかし反対を押しのけて企業名が公開され新聞で大きく取り上げられました。これは我々にとって大きな追い風となり、企業が本気で取り組むようになりました。求人獲得は間もなくして100社を超えました。将来的にはもっと大きなマーケットになる、そんな手応えを感じました。


しかし、障がいのある人たちはまったく集まりませんでした。最初、職業訓練校や特別支援学校に訪問したものの「公的機関は民間企業と付き合うことはできない。癒着になる」と断られました。「生徒のよりよい就職が大事なのでは?」といっても取り合ってもらえず。「この手の民間企業はあやしい」と煙たがられる日々が続きました。

できることは、毎日、ホームページに集めてきた企業の求人情報を掲載すること。そして、誰かの役に立ってくれればという思いで「就職の極意」という障がい者が働く上でのノウハウを毎日書きました。数ヶ月経ち、月0人だった登録者が、2人3人と、少しずつですが増えていきました。


カウンセリングでは、一人ひとり丁寧に話を聞きました。そして、お客様という関係ではなく、一人の人間として向き合いました。

障がいがあるといっても、色々な人がいます。甘えている人もいます。権利を主張するふざけた態度をとる人もいました。しかし、多くの人は、社会に人生を阻まれた人たち。差別や不平等な扱いをうけていました。就職活動で100社受けても1社も書類が通過しない。面接に行っても障がいのことを話した瞬間に面接が終わる。聞くたびに怒りを感じていました。二人で涙を流すこともたびたび。机にはティッシュが必要で、いつも置いてありました。


今まで障がい者は企業内で雇用されていなかったため、企業内での就業経験やパソコンを使う経験がそもそもありません。マッチングどころではないのです。能力や経験を推薦するのではなく、人となりを紹介するしかない。

軽作業的な求人を取ってきては「いい人なので、一度会ってください」と地道に続けました。

求人内容とまったく違っても「一度会ってみてください」としつこく提案し続けたことで、半年過ぎた頃、ようやく初めての就職決定がうまれたのです。その頃からインターネット検索が増え始めていたので、登録者も増えていきました。ほめられるようなものではありませんが、ようやく点と点がつながりだし、就職決定がうまれるようになりました。通帳の残金は底をついていたので、ギリギリの船出でした。



さらなる挑戦の連続

障がい者の「良き認知」を広めるために

1年ほど経過した2004年。100人以上の就職決定が出るほど、順調に上向いていました。仲間は5人になっていました。上野のマンション一室が手狭となり、20坪ほどの虎ノ門のオフィスに移転を検討していた頃、次の挑戦として業界初の転職サイト「atGP(アットジーピー)」をつくることを決めました。

当時ハローワークでは、自分が住んでいるエリアの求人しか見ることができない大変不便なものでした。また、求人情報量も大変少ないものでした。それが「atGP(アットジーピー)」によって、北海道から沖縄、たとえ海外に住んでいても、希望の場所、気に入った仕事に直接応募できるようになりました。


翌年の2005年、「適職フェア」という面接会を開催しました。「会ってみないとわからない」「そもそも会ったことがない」という企業の声が多かったため、いろんな障がいのある人と会えるイベントとして合同面接会を実施したのです。

企業50社、求職者250人が集まる、日本で一番大きな障がい者転職イベントとなりました。就職決定が増えていくと、簡単に決まる求職者がいる一方で、まったく決まらない求職者がいることがわかりました。

身体障がいの中では、上肢障がいや心臓障がいなど、配慮が少ない障がいが決まりやすい。しかし、全盲の視覚障がい、重度の聴覚障がい、人工透析の方、車いす、HIV(免疫機能障がい)は決まりづらいのです。そのため、企業に積極的に売り込み、求人獲得をする。またフォローを手厚くし、難しい人たちの決定に貢献していきました。


創業して7、8年ほどたった2011年ごろから、身体障がいだけでなく、精神障がい者が障がい者雇用の法律の枠組みに加わりました。精神障がい者の求人開拓がまったく進んでいない時代であったため、まずは、精神障がい者が職業訓練トレーニングを受けられる学校を創設しました。

加えて、「GP内にも働く場をつくろう」ということで農業事業を開始するなど、他にはない挑戦を続けました。その後も障がい者総合研究所の設立。障がい者のライフスタイルマガジン「madia116」の開設。目の前に問題があれば行動をする。誰もやってないことだからやろう。このような姿勢は創業から脈々と続くDNAとなっています。



0から1の功績

新事業が社会にもたらしたもの

GPには「就職が決まればそれで終わり」と考える人はいません。むしろ入社後が見せ場だという考えで運営をしています。


就職決定に応じて売上があがるモデルなので、就職決定が増えることは良いことです。しかし、障がい者のことを知ってもらうためには、入社後に仕事で活躍している姿を見せることが大事なのです。

共に働いている人たちが「障がい者のイメージが良くなった」という状態をつくること。これこそ我々が真に喜ぶべきことなのです。目的がある。他の人材会社との大きな違いではないでしょうか。

企業から「障がい者って良くも悪くも普通の人でした」「障がいあるなしは仕事のできるできないに関係がない」「契約社員だったけど正社員に転換しようと思う」という言葉は我々が社会を変えている成果といえます。今もこの目的を大事に仕事をしています。


創業から2、3年が経ったところで、競合他社があらわれました。日本トップ5の大手人材サービス企業がそろって新規参入してきたのです。

創業前に大手人材企業に「障がい者雇用の分野はやらないのか」と質問してまわりましたが、すべての会社でネガティブな回答でした。「うまくいかない。やりたくない」「問題が起きたら大変だからやらない。リスクが大きい」「株式会社は社会貢献をやっちゃだめでしょ。それはボランティアがやること」「マーケットが小さいから儲からない。儲からないことはやらない」と言っていた会社ばかりだったのに、我々がうまくいっていたので参入してきたのです。こちらは弱小企業だったので焦りました。つぶされないように、のみこまれないように、という危機感がうまれたことを思い出します。


創業して10年以上が経ち、40~50社の民間企業が新規参入したことで、小さな業界が形成され、サービスが認知されました。障がい者雇用人数は過去最高を毎年更新するほど、今でも成長しています。


初めに誰かが、道のないところをかき分け歩き始め、その後ろを歩く人があらわれ、またそこに続いて歩き始める人が続々あらわれ、またたくまに歩く人が増えていき、いつしかそこは大きな道になっていた。その道は日々いろんな人たちが通ることでさらに道が広がっていく。こんなことを体験しました。これらの体験から、社会を変えるには「最初に道なき道をつくること」がもっとも重要なことなのだと確信しました。

こうしてGPは「新たな社会問題解決事業を次々と創っていこう」という第二創業期へと移行していくことになるのです。



続きます↓